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歴史の闇に埋もれた陽高事件「東条英機の戦争責任」
歴史学者の秦郁彦氏は 「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル出兵、「陽高の集団虐殺」、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と推測している。

(秦郁彦 著書「現代史の争点」より)



「陽高事件」(陽高の集団虐殺)は、秦郁彦氏が1987年に雑誌上(諸君 1987年8月号)で東条英機の戦争責任について論じたのをきっかけに知られるようになった。

陽高事件とは、1937年(昭和12年)9月8日に山西省北部の町・陽高を占領した関東軍の察哈爾派遣兵団(兵団長は東条英機中将)が、占領当日から翌9日にかけて城内で「男狩り」を行い、非戦闘員を含む数百人を虐殺したとされる事件だ。

中国側の主張では500~600人が殺害され、12人が脱出に成功したとされている。国府も終戦後に戦犯訴追のための調査を行ったが、東京裁判やBC級戦犯裁判でも訴追されることなく、歴史の闇に埋もれてしまうこととなった。

東京裁判で陽高事件が訴追されなかったのは、秦氏が指摘するように、唯一と言って良い検察側証人だった田中隆吉が参謀として察哈爾派遣兵団に勤務していたことが大きい。

察哈爾作戦における東條英機兵団長(中央) (毎日新聞社,1937年)
toujyo1937.jpg

「日華事変と山東省」より
http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000130.html
※「陽高事件」について、詳しく知りたい方はリンク先参照ください




(簡単に知りたい方は以下)

秦郁彦氏他編「世界戦争犯罪事典」より
http://t-t-japan.com/bbs/kyview.cgi?k=a&dir=tohoho&pg=10&id=glgqrf&id2=glgqrf
「陽高事件」
日中戦争初期の一九三七年九月、内モンゴルの陽高で、関東軍のチャハル兵団(兵団長東条英機中将)がひきおこした中国人虐殺事件。

七月七日の盧溝橋事件をきっかけに日中間の戦火はしだいに拡大、八月中旬には華北ばかりではなく、華中の上海にも飛び火した。この間に中央・現地を通じ、もっとも強硬論を主張していたのは、極東ソ連軍を主敵としているはずの関東軍で、なかでも東条参謀長は対ソ戦準備の前にまず国民政府(南京政権)に一撃を加え、背後の脅威を除去すべきであるという思想の持ち主であった。

その関東軍は、華北の戦闘が始まると、八月一四日チャハル兵団を編成、東条はみずから兵団長に就任、二個族団をひきい内モンゴルのチャハル省へ進攻した。参謀長が部隊の指揮官を兼ねるのは陸軍の伝統に反する異例の事態だったが、関係者は「チャハル作戦も兼務も東条の発案」で「東条の戦争」以外の何物でもなかったと証言している。
 
作戦自体は追撃につぐ急進の連続で、八月二七日には張家口、九月一一日には大同を占領し、内モンゴルの全域を制圧した。

大同の東北にある陽高で虐殺事件が起きたのは九月九日である。本多族団が南城門から、篠原族団が北城門から城壁を乗り越えて城内へ突入したのは八日夜だが、守備兵の猛抵抗で約一四〇人の死傷者を出す。激高した日本軍は夜が明けて占領が終わると、城内の男という男を狩り出してしばりあげ、機関銃の集中砲火を浴びせて殺害した。

その数は三五〇人とも五〇〇人ともいわれるが、はっきりしない。また処刑を実施した部隊名も明確でないが、東条が首相時代の一九四三年二月、秘書官との雑談で当時を回顧して、「不穏な支那人等は全部首をはねた。一人しか捕虜は居なかった。斯くの如く日本の威力を知らせておいて・・・米とか何とかを施してやった。恩威並び行われたわけだ」と語っているので、東条兵団長の責任は免れないと思われる。

しかし、この事件は東京裁判でも中国のBC級法廷でも裁かれなかった。一説には、中国側は本多族団の歩兵第三連隊と野砲兵第四連隊を「犯人」と見当をつけ、訴追を要求したが、取りあげられなかった。

理由は不明だが、A級被告のトップにいた東条の履歴書に、出先かぎりの人事発令だったチャハル兵団長の職歴が記載されていなかったのも一因だろう。もし東条が実質的な責任者とわかれば、東京裁判の検事団はためらわずに陽高事件を訴追したと思われる。

東条を「平和に対する罪」に加え「虐殺の元凶」として裁く法廷効果は絶大だったからである。
(秦郁彦)

<参考文献>
信太山砲四会『野砲第四連隊並に関連諸部隊史』(一九八二)
秦郁彦「東條英機の<戦争責任>」(秦郁彦『現代史の争点』文藝春秋一九九八)




▼「憲兵政治」の象徴、東条英機による、報復・懲罰召集、懲罰転任など

◯戦備課の塚本清彦少佐は、東条へ戦局に関する直言を試みて激怒を買い、即日サイパンの守備参謀に追いやられ戦死した。

◯毎日新聞記者が「竹槍では勝てない。飛行機だ」という記事を書いたというので、その記者を招集して玉砕が予想された硫黄島に二等兵として送ろうとした。その記者は37歳という高齢で当時の戦局では大正時代の老兵は一人も招集されていなかった。

◯衆議院議員の中野正剛が朝日新聞に寄稿した「戦時宰相論」に東条が激怒し、東条の指金の憲兵隊によって拷問をうけたうえ、自宅に帰ってきて自決した。

◯反東条の逓信省工務局長松前重義を45歳という超高齢で二等兵として召集し、南方へ爆薬船に乗せて送った。

他にも、中村検事、谷田勇少将の事例などなど。

<参考サイト>
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/takeyarijiken.htm


<関連ブログ>
「土佐高知の雑記帳」より  映画に観る憲兵国家
http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-786.html


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