沖縄戦での防衛隊について興味を持ちました。沖縄戦をただ祖国のために沖縄県民がすすんで命を捧げたドラマとして描こうとする人達からは、防衛隊の姿はあるべからざるものとして切り捨てられてきました。最近も歴史修正グループの代表格である藤岡信勝(ふじおか のぶかつ)、中村粲(なかむら あきら)の両センセーが集団自決に軍の関与・強制があったという事実を誤魔化すために「防衛隊員は軍とは関係ない」と珍論を展開し、切り捨てることに躍起になっています。(以下、改行と強調は引用者)
沖縄集団自決・教科書から「軍命令」削除 検定撤回狙うNHK報道
中村粲/昭和史研究所代表
軍命令存在の“証言”として再三流すのは「日本軍から手榴弾を渡されて自決を強いられた」との言葉である。だが、この中の「日本軍」というキーワードに重大なごまかしがある。住民に手榴弾を渡して自決を勧めたのは地元出身の防衛隊員で、戦隊所属の日本軍将兵ではない。防衛隊とは兵役法による正規兵ではなく、現地在郷軍人会が結成した義勇兵で、軍装も不統一、階級章も付けていない。軍とは別に、家族と共に起居していた。
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=464
林博史氏は教科書検定審議会の意見聴取の対象として適格か
藤岡信勝
慶良間諸島には当時、陸軍海上挺進隊という正規の部隊が駐留していたほかに、防衛隊という名の、地元住民からなる義勇兵が存在したからだ。帝国在郷軍人会沖縄支部は市町村の集落単位で住民男性を集め中隊を編成した。法令的な根拠はなく、中国戦線などから帰還した戦場経験者がリーダーシップをとった。村長、助役などの村の顔役が隊長を兼ねて行政と一体化していた。しかし、陸軍の正規部隊の構成員ではないから軍服・武器は支給されず、日常生活は家族と起居をともにしていた。軍と協力し、軍を補助する仕事をしていた防衛隊員は、武器をほしがり、みずから戦闘集団たらんとした。
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=2820&forum=1&viewmode=flat&order=ASC&start=400
この二人のウソ言い分をまとめると、
「防衛隊は地元住民が自主的に結成した義勇隊で日本軍じゃないよ。日常生活も軍とは別に家族と共に起居していたんだよ。だから集団自決は防衛隊と住民が勝手にしたことで、日本軍は関係ないよ。」
こんな感じでしょうか。確かに県史には、
一九四四年(昭和一九)七月一〇日ころ在郷軍人会沖縄支部は市町村単位の防衛隊を編成したが、これはいわゆる義勇隊であって法令上の根拠はない(義勇兵役法が成立するのは翌年六月)」と『沖縄県史別巻―沖縄近代史辞典』(四九四頁)にはあるが、読谷山では表立ったそのような組織や動きはなかった。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu093.htm
とありますが、読谷村でも組織や動きがなかったことからわかるように、この時期には本格的な防衛召集はまだ実施されていません。沖縄での本格的な防衛召集はこの後から実施されます。
[本格的な防衛召集の実施]
一九四四年一〇月に(陸軍防衛召集)規則が改正されて、徴兵検査をうける前の一七・一八歳の男子も召集可能となり、一〇月から一二月にかけて一七歳から四五歳までの男子を召集の実施したのが第二の時期である。(中略)なおこのときに防衛召集された青年の一部は、遊撃隊に配属され、遊撃戦の訓練をうけている。第三の防衛召集は、一九四五年の二~三月の時期であり、とくに三月六日付だけで約一万四千人(本島のみ)が召集されており、防衛召集の多くがこの時期に集中している。(中略)
[捨て石にされた防衛隊員]
防衛召集されながら、「防衛召集」という言葉すら知らない者も多かった。召集令状も普通の赤紙ではなく、青紙であったので、すぐに家に帰れるだろう、という程度の認識の者さえいた。だが彼らは陸軍二等兵に任命され、その望みもすぐに消えた。
藤原彰「沖縄戦――国土が戦場になったとき」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20071125/1200676580
そして在郷軍人会による義勇隊は防衛召集による防衛隊に編入されていったそうです。
防衛召集が、在郷軍人会防衛隊を構成している成年男子を根こそぎ召集したことを考えると在郷軍人会防衛隊は、防衛召集による防衛隊にとってかわられていったのではないかと推定される。
[林 博史HP] 沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper04.htm
このようにほとんどの防衛隊員は一九四四年一〇月に陸軍防衛召集規則が改正されてから青紙で召集され陸軍二等兵として各部隊に配属されています。当然、家族と共に起居することなど許されていません。一七歳未満の男子学徒からなる防衛隊員(鉄血勤皇隊など)も陸軍二等兵として軍に召集されています。
[一般の鉄血勤皇隊]
県立一中では昭和二十年三月二十九日、「事実上の入隊式があった。別に式という程のものではなかったが、二等兵の階級章と軍服が隊員に支給されたのである。真新しい軍服、軍帽軍靴、ゲートルに肌着等全部支給された。上級生も下級生もなく、みんな二等兵である。子供みたいな兵隊ができあがったが、馴れるにそれほど時間を要しなかった。
(中略)
防衛隊員であっても軍人であり、いかなる状況にあっても所属部隊を離れてはならないし、特に戦場においては戦列からの離脱は考えられない。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu097.htm
なお、一七歳未満の鉄血勤皇隊の召集には法令上の根拠がないので一応「志願」というかたちで召集され各部隊に配属されたそうですが、ここらへんの法令上の規定がどうなっているのかまでは、まだ勉強不足で詳しくはわかりません。知ってる方がいましたらコメ欄か(こちら)に情報を寄せてもらえると助かります。
[強制された学徒隊参加](※ここでいう学徒隊とは鉄血勤皇隊のこと)
学徒隊への参加は、法的根拠がないため、生徒の志願というかたちがとられ、保護者の承認がいることが建前とされていた。だが、学校が勝手に印鑑をつくって書類を作成したこともあり、事実上強制参加と同じであった。
藤原彰「沖縄戦――国土が戦場になったとき」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20071125/1200676580
召集令状による集合者の中には不適格者の病人や身体不自由者も含まれており、部隊側は兵事主任にさらに補充を求め、十六歳以上五十歳まで適用年齢を拡大して令状を発行した例もあったという。
一般の防衛隊が兵事主任を通し、聯隊区司令官名で召集されたのに対し、学徒隊は学校ごとに軍に徴され、鉄血勤皇隊を結成して従軍した純然たる防衛隊(員)であった。大田昌秀はその著『鉄血勤皇隊』の中で、第三十二軍の駒場少佐による軍司令官命伝達を次のように記している。
「沖縄師範学校職員生徒は第三十二軍司令官の命により、本日より全員鉄血勤皇隊として軍に徴された。今や敵の沖縄上陸は必至である。諸君は全力を挙げて…(後略)」(一二頁)。
これを見ても鉄血勤皇隊とはいえ、軍に徴されたからには軍司令官直接命令による防衛召集にほかならない。ということは兵事主任とは別ルートの防衛召集であり、それは鉄血勤皇隊を編成し従軍した他の中等学校も同じである。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu094.htm
<歴史修正主義グループも防衛隊が正規軍の一員であると認める>
『沖縄戦集団自決事件をめぐる 「反日神話」の背景(2)』
椿原泰夫/自由主義史観研究会会員
沖縄戦では、「国家総動員法」の趣旨に基づき、十四歳以上四十五歳までの健康な男子は「防衛隊員」として召集されていた。軍による動員であり、「正規軍」の一員としての扱いであった。
http://www.jiyuu-shikan.org/rekishi106.html
曽野綾子「ある神話の背景」 233頁
しかし調べてみると、沖縄の場合の防衛隊員というのは、れっきとした兵であった。
「第三十二軍においては、航空基地の急速設定時の特設警備工兵隊の編成、遊撃隊の編成などに防衛召集を実施したが、二十年二月中旬情勢が急迫を告げた際、相当数の防衡召集を実施し、更に三月上旬約十五日間を目途として大々的に防衛召集が実施された。この際学徒の一部も動員された」(国頭支隊命令綴)
召集されたのだから、正規兵であった。
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/356083
<防衛隊について参考になるサイトやブログ>
・「鉄血勤皇隊」などの資格について [Apes! Not Monkeys! はてな別館]
・沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦 [林 博史HP]
・第一章 太平洋戦争と沖縄戦 [読谷村史]
・沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(2) [愛・蔵太の少し調べて書く日記]
<お知らせ>
沖縄戦について質問や議論ができる掲示板ができました。みなさん分からないことなどありましたら気軽に参加してみてください。誰も参加しないと自分とni0615さんのチャット化してしまいそうです(^^;
http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?mode=tree
沖縄集団自決・教科書から「軍命令」削除 検定撤回狙うNHK報道
中村粲/昭和史研究所代表
軍命令存在の“証言”として再三流すのは「日本軍から手榴弾を渡されて自決を強いられた」との言葉である。だが、この中の「日本軍」というキーワードに重大なごまかしがある。住民に手榴弾を渡して自決を勧めたのは地元出身の防衛隊員で、戦隊所属の日本軍将兵ではない。防衛隊とは兵役法による正規兵ではなく、現地在郷軍人会が結成した義勇兵で、軍装も不統一、階級章も付けていない。軍とは別に、家族と共に起居していた。
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=464
林博史氏は教科書検定審議会の意見聴取の対象として適格か
藤岡信勝
慶良間諸島には当時、陸軍海上挺進隊という正規の部隊が駐留していたほかに、防衛隊という名の、地元住民からなる義勇兵が存在したからだ。帝国在郷軍人会沖縄支部は市町村の集落単位で住民男性を集め中隊を編成した。法令的な根拠はなく、中国戦線などから帰還した戦場経験者がリーダーシップをとった。村長、助役などの村の顔役が隊長を兼ねて行政と一体化していた。しかし、陸軍の正規部隊の構成員ではないから軍服・武器は支給されず、日常生活は家族と起居をともにしていた。軍と協力し、軍を補助する仕事をしていた防衛隊員は、武器をほしがり、みずから戦闘集団たらんとした。
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=2820&forum=1&viewmode=flat&order=ASC&start=400
この二人の
「防衛隊は地元住民が自主的に結成した義勇隊で日本軍じゃないよ。日常生活も軍とは別に家族と共に起居していたんだよ。だから集団自決は防衛隊と住民が勝手にしたことで、日本軍は関係ないよ。」
こんな感じでしょうか。確かに県史には、
一九四四年(昭和一九)七月一〇日ころ在郷軍人会沖縄支部は市町村単位の防衛隊を編成したが、これはいわゆる義勇隊であって法令上の根拠はない(義勇兵役法が成立するのは翌年六月)」と『沖縄県史別巻―沖縄近代史辞典』(四九四頁)にはあるが、読谷山では表立ったそのような組織や動きはなかった。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu093.htm
とありますが、読谷村でも組織や動きがなかったことからわかるように、この時期には本格的な防衛召集はまだ実施されていません。沖縄での本格的な防衛召集はこの後から実施されます。
[本格的な防衛召集の実施]
一九四四年一〇月に(陸軍防衛召集)規則が改正されて、徴兵検査をうける前の一七・一八歳の男子も召集可能となり、一〇月から一二月にかけて一七歳から四五歳までの男子を召集の実施したのが第二の時期である。(中略)なおこのときに防衛召集された青年の一部は、遊撃隊に配属され、遊撃戦の訓練をうけている。第三の防衛召集は、一九四五年の二~三月の時期であり、とくに三月六日付だけで約一万四千人(本島のみ)が召集されており、防衛召集の多くがこの時期に集中している。(中略)
[捨て石にされた防衛隊員]
防衛召集されながら、「防衛召集」という言葉すら知らない者も多かった。召集令状も普通の赤紙ではなく、青紙であったので、すぐに家に帰れるだろう、という程度の認識の者さえいた。だが彼らは陸軍二等兵に任命され、その望みもすぐに消えた。
藤原彰「沖縄戦――国土が戦場になったとき」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20071125/1200676580
そして在郷軍人会による義勇隊は防衛召集による防衛隊に編入されていったそうです。
防衛召集が、在郷軍人会防衛隊を構成している成年男子を根こそぎ召集したことを考えると在郷軍人会防衛隊は、防衛召集による防衛隊にとってかわられていったのではないかと推定される。
[林 博史HP] 沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper04.htm
このようにほとんどの防衛隊員は一九四四年一〇月に陸軍防衛召集規則が改正されてから青紙で召集され陸軍二等兵として各部隊に配属されています。当然、家族と共に起居することなど許されていません。一七歳未満の男子学徒からなる防衛隊員(鉄血勤皇隊など)も陸軍二等兵として軍に召集されています。
[一般の鉄血勤皇隊]
県立一中では昭和二十年三月二十九日、「事実上の入隊式があった。別に式という程のものではなかったが、二等兵の階級章と軍服が隊員に支給されたのである。真新しい軍服、軍帽軍靴、ゲートルに肌着等全部支給された。上級生も下級生もなく、みんな二等兵である。子供みたいな兵隊ができあがったが、馴れるにそれほど時間を要しなかった。
(中略)
防衛隊員であっても軍人であり、いかなる状況にあっても所属部隊を離れてはならないし、特に戦場においては戦列からの離脱は考えられない。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu097.htm
なお、一七歳未満の鉄血勤皇隊の召集には法令上の根拠がないので一応「志願」というかたちで召集され各部隊に配属されたそうですが、ここらへんの法令上の規定がどうなっているのかまでは、まだ勉強不足で詳しくはわかりません。知ってる方がいましたらコメ欄か(こちら)に情報を寄せてもらえると助かります。
[強制された学徒隊参加](※ここでいう学徒隊とは鉄血勤皇隊のこと)
学徒隊への参加は、法的根拠がないため、生徒の志願というかたちがとられ、保護者の承認がいることが建前とされていた。だが、学校が勝手に印鑑をつくって書類を作成したこともあり、事実上強制参加と同じであった。
藤原彰「沖縄戦――国土が戦場になったとき」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20071125/1200676580
召集令状による集合者の中には不適格者の病人や身体不自由者も含まれており、部隊側は兵事主任にさらに補充を求め、十六歳以上五十歳まで適用年齢を拡大して令状を発行した例もあったという。
一般の防衛隊が兵事主任を通し、聯隊区司令官名で召集されたのに対し、学徒隊は学校ごとに軍に徴され、鉄血勤皇隊を結成して従軍した純然たる防衛隊(員)であった。大田昌秀はその著『鉄血勤皇隊』の中で、第三十二軍の駒場少佐による軍司令官命伝達を次のように記している。
「沖縄師範学校職員生徒は第三十二軍司令官の命により、本日より全員鉄血勤皇隊として軍に徴された。今や敵の沖縄上陸は必至である。諸君は全力を挙げて…(後略)」(一二頁)。
これを見ても鉄血勤皇隊とはいえ、軍に徴されたからには軍司令官直接命令による防衛召集にほかならない。ということは兵事主任とは別ルートの防衛召集であり、それは鉄血勤皇隊を編成し従軍した他の中等学校も同じである。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu094.htm
<歴史修正主義グループも防衛隊が正規軍の一員であると認める>
『沖縄戦集団自決事件をめぐる 「反日神話」の背景(2)』
椿原泰夫/自由主義史観研究会会員
沖縄戦では、「国家総動員法」の趣旨に基づき、十四歳以上四十五歳までの健康な男子は「防衛隊員」として召集されていた。軍による動員であり、「正規軍」の一員としての扱いであった。
http://www.jiyuu-shikan.org/rekishi106.html
曽野綾子「ある神話の背景」 233頁
しかし調べてみると、沖縄の場合の防衛隊員というのは、れっきとした兵であった。
「第三十二軍においては、航空基地の急速設定時の特設警備工兵隊の編成、遊撃隊の編成などに防衛召集を実施したが、二十年二月中旬情勢が急迫を告げた際、相当数の防衡召集を実施し、更に三月上旬約十五日間を目途として大々的に防衛召集が実施された。この際学徒の一部も動員された」(国頭支隊命令綴)
召集されたのだから、正規兵であった。
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/356083
<防衛隊について参考になるサイトやブログ>
・「鉄血勤皇隊」などの資格について [Apes! Not Monkeys! はてな別館]
・沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦 [林 博史HP]
・第一章 太平洋戦争と沖縄戦 [読谷村史]
・沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(2) [愛・蔵太の少し調べて書く日記]
<お知らせ>
沖縄戦について質問や議論ができる掲示板ができました。みなさん分からないことなどありましたら気軽に参加してみてください。誰も参加しないと自分とni0615さんのチャット化してしまいそうです(^^;
http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?mode=tree
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Comment

藤岡信勝、中村粲といえば南京事件否定論者でもあるわけですが、否定論者は戦時国際法の「交戦者資格」を恣意的に解釈して国民党軍を非難しているわけです。彼らの従来からの主張にてらせば、「兵役法による正規兵ではなく、現地在郷軍人会が結成した義勇兵で、軍装も不統一、階級章も付けていない」ような「便衣兵」が存在していたのだとすると、日本軍の責任が問われることになってしまいますね…。
もしかすると訂正が必要か?
Apemanさんへ
返事遅くなりやした。
なるほど。否定論者お得意のブーメランですね(笑
ni0615さんへ
ちと意味が分かりにくいんですが。。。
すいません。わかりやすくお願いします(^^;
返事遅くなりやした。
なるほど。否定論者お得意のブーメランですね(笑
ni0615さんへ
ちと意味が分かりにくいんですが。。。
すいません。わかりやすくお願いします(^^;
それともギョ
やっしゃんさんへ
単純なことです。
1、慶良間諸島の証言には「防衛隊員」のものが少ないかなあ
2、だから「僕は防衛隊員二等兵」だったという証言をみかけないのかなあ。
それともギョ、
「防衛隊員=二等兵」はあまりにも常識過ぎて敢えて言う沖縄人がいないのか。
ボクは最近こう思うんです。
ホン土人は沖縄のことがサッパリわかっちゃいないし、沖縄の人はホン土人が沖縄のことをサッパリ分かってないことを、もう諦めたのか、あまり気にしてないようだし。
なんかどちらも、ネトウヨ諸君のようなネトネトうようよ、ヌタウナギのような粘着した執拗さがないようで・・・・。
単純なことです。
1、慶良間諸島の証言には「防衛隊員」のものが少ないかなあ
2、だから「僕は防衛隊員二等兵」だったという証言をみかけないのかなあ。
それともギョ、
「防衛隊員=二等兵」はあまりにも常識過ぎて敢えて言う沖縄人がいないのか。
ボクは最近こう思うんです。
ホン土人は沖縄のことがサッパリわかっちゃいないし、沖縄の人はホン土人が沖縄のことをサッパリ分かってないことを、もう諦めたのか、あまり気にしてないようだし。
なんかどちらも、ネトウヨ諸君のようなネトネトうようよ、ヌタウナギのような粘着した執拗さがないようで・・・・。
ni0615さんへ
1と2はどうなんでしょう?ni0615さんのほうが詳しいんじゃないかと思われ。
>「防衛隊員=二等兵」はあまりにも常識過ぎて敢えて言う沖縄人がいないのか。
自分的には新しい発見だったんですが(^^;
意外とみんな知らないと思うんですが、かといって歴史修正主義者の言ってる「防衛隊=軍とは関係ない義勇兵」を鵜呑みにするような人は実際にはほとんどいないんでしょうね。てかネット以外でそんなこと言ってたらバカを晒してるようなものですからね(笑)
>もう諦めたのか、あまり気にしてないようだし。
実際自分の周りでも話題になりませんし、あまり関心がないだけじゃないかと。あと、今どき沖縄人と本土人を分けて差別してるのは自称保守論客のじいさんばあさんぐらいでしょ(笑)
1と2はどうなんでしょう?ni0615さんのほうが詳しいんじゃないかと思われ。
>「防衛隊員=二等兵」はあまりにも常識過ぎて敢えて言う沖縄人がいないのか。
自分的には新しい発見だったんですが(^^;
意外とみんな知らないと思うんですが、かといって歴史修正主義者の言ってる「防衛隊=軍とは関係ない義勇兵」を鵜呑みにするような人は実際にはほとんどいないんでしょうね。てかネット以外でそんなこと言ってたらバカを晒してるようなものですからね(笑)
>もう諦めたのか、あまり気にしてないようだし。
実際自分の周りでも話題になりませんし、あまり関心がないだけじゃないかと。あと、今どき沖縄人と本土人を分けて差別してるのは自称保守論客のじいさんばあさんぐらいでしょ(笑)
私のブログの記事です…TBが通らないので
記事リンクを貼りました。私の名前またはURLをクリックして下さい。
「こんなにたくさん立てて無謀ではないか?と思うけど、がんばれ日本共産党73人の衆院比例候補者たち!」
~たしかな野党を、応援し続ける勇気を!~
「こんなにたくさん立てて無謀ではないか?と思うけど、がんばれ日本共産党73人の衆院比例候補者たち!」
~たしかな野党を、応援し続ける勇気を!~
やっしゃんさんへ
「沖縄の証言(上)」の谷川さんの解説http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/143.htmlでも「防衛隊」については漠とした言及ですね。
「沖縄戦を考える」 (1983年) (おきなわ文庫〈9〉): 嶋 津与志では、学徒動員の記録は集まっているが、人数規模の大きな各村村の「防衛隊」「女子青年団」の記録が圧倒的に少ない、といってますね。それから、住民の戦闘協力については、調査の多くが「援護法」のフィルタがかかっていて問題があるとも。・・・この本はいずれきちんと読んでみます。
オフトピですが、援護法に基づく調査は、戸籍消失した一家全滅者などは拾えておらず(つまり歴史から抹消されて)、しかもそれが決して少数でないことも沖縄戦の特徴だそうです。
「沖縄戦を考える」 (1983年) (おきなわ文庫〈9〉): 嶋 津与志では、学徒動員の記録は集まっているが、人数規模の大きな各村村の「防衛隊」「女子青年団」の記録が圧倒的に少ない、といってますね。それから、住民の戦闘協力については、調査の多くが「援護法」のフィルタがかかっていて問題があるとも。・・・この本はいずれきちんと読んでみます。
オフトピですが、援護法に基づく調査は、戸籍消失した一家全滅者などは拾えておらず(つまり歴史から抹消されて)、しかもそれが決して少数でないことも沖縄戦の特徴だそうです。
御願いするしだいです
やっしゃんさんのブログにコメントできないのでここで失礼します。
>[沖縄戦]渡嘉敷島での「集団自決」と「住民殺害」
のなかの引用文は、ホントに『鉄の暴風』の初版の記述なんですか? わたしは10版をもっていますが、違いが目に付くもので、無礼を承知で再確認を御願いするしだいです。
>[沖縄戦]渡嘉敷島での「集団自決」と「住民殺害」
のなかの引用文は、ホントに『鉄の暴風』の初版の記述なんですか? わたしは10版をもっていますが、違いが目に付くもので、無礼を承知で再確認を御願いするしだいです。
ni0615さんへ
>違いが目に付くもので
えっ、そうなんですか。P64~67をテキスト化しただけなんでなんとも……
ちなみに沖縄戦関連で今手元にあるのは、
「沖縄戦と民衆」林博史
「母の遺したもの」宮城晴美
「赤瓦の家」川田文子
あとウォッチ用に秦郁彦の「歪められた日本現代史」
こんな感じでしょうか。
>違いが目に付くもので
えっ、そうなんですか。P64~67をテキスト化しただけなんでなんとも……
ちなみに沖縄戦関連で今手元にあるのは、
「沖縄戦と民衆」林博史
「母の遺したもの」宮城晴美
「赤瓦の家」川田文子
あとウォッチ用に秦郁彦の「歪められた日本現代史」
こんな感じでしょうか。
再確認謝々
やっしゃんさん、すみませんでした。
大田昌秀「死者たちは、いまだ眠れず」(新泉社、2006年)P64~67ですね。わざわざ再確認してくださって、ありがとうございました。
なお、「鉄の暴風」10版からのOCRはココにおきました。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/868.html
大田昌秀「死者たちは、いまだ眠れず」(新泉社、2006年)P64~67ですね。わざわざ再確認してくださって、ありがとうございました。
なお、「鉄の暴風」10版からのOCRはココにおきました。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/868.html
ni0615さんへ
確かに違いますね。
今手元に本がないので確認できませんが、大田昌秀さんの要約なのかもしれませんね。あと、自分が分かりやすくするために付けたした部分は始まりの“(渡嘉敷島での)”だけだと記憶しているんですが、もしかしたらカギカッコも可能性あり(汗
確かに違いますね。
今手元に本がないので確認できませんが、大田昌秀さんの要約なのかもしれませんね。あと、自分が分かりやすくするために付けたした部分は始まりの“(渡嘉敷島での)”だけだと記憶しているんですが、もしかしたらカギカッコも可能性あり(汗
『指針』
教科書検定審議会が、真意解読のむずかしい『指針』を教科書会社に出したそうですね。以下、いくつかの報道。
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/415458/
情報提供は
http://susumerukai.web.fc2.com/
付記
http://azuryblue.blog72.fc2.com/blog-entry-327.html
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/415458/
情報提供は
http://susumerukai.web.fc2.com/
付記
http://azuryblue.blog72.fc2.com/blog-entry-327.html
渡嘉敷では
集団自決とストレートに結びつく渡嘉敷島での防衛隊召集に関する史料は、
中身が紹介されずに神話とされてしまった、『様相』と『概要』です。最近書き起こしました。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1420.html
同十月下旬 今まで自家通勤で陣地作業に従事してゐた、七十九名の者に防衛隊としての召集が下された、兵舎には村の国民学校が充てられ(※8) 初年兵勤務が始められたが(※9)教練訓練ではなく専ら壕掘作業に従事せしめられ 昭和二十年の元旦を兵舎で迎えた
(引用者注)渡嘉敷島の防衛召集について明確な表現がなされている。召集された防衛隊員は正式な軍人=二等兵として入営したのである。
中身が紹介されずに神話とされてしまった、『様相』と『概要』です。最近書き起こしました。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1420.html
同十月下旬 今まで自家通勤で陣地作業に従事してゐた、七十九名の者に防衛隊としての召集が下された、兵舎には村の国民学校が充てられ(※8) 初年兵勤務が始められたが(※9)教練訓練ではなく専ら壕掘作業に従事せしめられ 昭和二十年の元旦を兵舎で迎えた
(引用者注)渡嘉敷島の防衛召集について明確な表現がなされている。召集された防衛隊員は正式な軍人=二等兵として入営したのである。
ni0615 | URL | 2008/10/22/Wed 17:49 [EDIT]
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