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渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度
■「裁かれた沖縄戦」安仁屋政昭(晩聲社・1989年)から該当箇所を抜き出してみました。本書は*第三次教科書訴訟で家永氏が取り上げた沖縄戦に関連する裁判記録が収められたものです。

*第三次教科書訴訟
1988年2月9日・10日に那覇地方裁判所で行なわれた原告・家永側(安仁屋政昭氏、金城重明氏など)の証人調べに対して、被告・国側(曽野綾子氏など)の証人調べは同年4月5日と5月13日に東京地裁にて行なわれた。


P118 曽野綾子証人調書より
曽野綾子「赤松さんは、村の人のことというのは、正直言って、あまり頭になかったとおっしゃっていました。こちらは戦闘部隊なのであって、特攻舟艇の出撃はだめになったのだけれども、いずれは死ぬけですから、だれかが村の人のことはやるだろうということ、それから、集団自決に関しては、本当にみんなよくわからなくて、赤松さんは、ふとんがずぶぬれになって、女の子の髪が泥の中に見えましたと、そして、自決した場所というのはどこでしょうか、どこでしょうねと、しきりに言っておられました。」


手榴弾が使われた集団自決に関して、よくわからなかったというのはありえないと思うんですがねぇ。


P297.298 金城重明証人調書より 
ーーー曽野さんが赤松隊長に取材して、赤松隊長は「恩納河原で三百何十人が自決を遂げて、累々と血が河原を染めていた、そういう状況は見てない。」ということを言ってますが、一体真実はどうなんですか。

金城重明「見てないとか見たとかについては、私は赤松さんと一緒にいたわけじゃありませんからわかりませんけれども、ただいえることは島は一部しか緑は残っていないんです。全部焼き払われて。日本軍は直接知ってますけれども、どの時点から一個中隊くらい上陸した、と。米軍がどこで何をしてるということを、全部日本軍は双眼鏡におさめているわけです。一挙手一投足、全部わかるんです。しかし、陣地のすぐ近くで300名以上の人がものすごいうめき声を挙げながら手榴弾を爆破させながら死んで行ったということを、全く知りませんでしたということは不思議でしょうがない。米軍ですら『恐ろしいうめき声。これは何かある。』と言って、その日の夕方からそこを調べに行こうとしたという状況の中で、日本軍が全く知らなかったということは、私は不思議でしょうがない。そいう思いが致します。」



当時、ニューヨーク・タイムズは、「渡嘉敷島の集団自決」という見出しで次のように報じている。


P344.345.346 集団自決の惨事より 
(NYタイムズ 1945年3月29日付け、ウオーレン・モスコウ記者の報告)
三月二十九日、昨夜、われわれ第七七師団の隊員は、慶良間最大の島、渡嘉敷の厳しい山道を島の北端まで登りつめ、一晩そこで野営することにした。その時、一マイル程離れた山地からおそろしいどよめきの声、悲鳴、うめき声が聞こえてきた。手榴弾が六発から八発爆発した。「一体何だろう」と偵察に出ようとすると、闇の中から狙い撃ちされた。仲間の兵士が射殺され、一人は傷を負った。われわれは朝まで待つことにした。その間人間とは思えない声と手榴弾が続いた。ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると「オーマイガッド」何ということだろう。そこは死者と死を急ぐもの達の修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供達の泣き声だけであった。

そこには200人ほど、(註・G2リポートには250人とある)の人がいた。そのうちおよそ150人が死亡、死亡者の中には六人の日本兵がいた。死体は三つの小川の上に束になって転がっていた。われわれは死体を踏んで歩かざるを得ないほどだった。およそ40人は手榴弾で死んだのであろう。周囲には、不発弾が散乱し、胸に手榴弾を抱えて死んでいる者もいた。(中略)

小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。まったく狂気の沙汰だ。軍医は助かる見込みのない者にモルヒネを与え、痛みを和らげてやった。全部で70人の生存者がいて、みんな負傷していた。その中に、二人の日本兵負傷者がいた。担架班が負傷者を海岸の救護施設まで移動させる途中、日本兵が洞窟から機関銃で撃ってきた。師団の歩兵がその日本兵を追い払い、救護が続いた。

生き残った人々は、アメリカ兵から食糧を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げ「鬼畜米英の手にかかるよりも自ら死を選べ」とする日本の思想が間違っていてことに今気がついたのであろう。それと同時に自殺行為を指揮した指揮者への怒りが生まれた。そして70人の生存者のうち、数人が一緒に食事をしている所に、日本兵が割り込んできた時、彼らはその日本兵に向って激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵を保護してやらねばならぬほどだった。なんとも哀れだったのは、自分の子供を殺し、自らは生き残った父母である。彼らは後悔の念から泣き崩れた。(以下略)
(上原正稔訳編「沖縄アメリカ軍戦時記録」20.21頁)




うわぁ……、日本軍は負傷者を救護しないばかりか、救護していたアメリカ兵を機関銃で撃ってますね。住民を守るという姿勢はまったくなかったようです。
そして、アメリカ軍の救護施設で住民が日本兵に対しこれほど激しく怒ったということからも、みずからの意思でなく日本軍から死を強制され「集団自決」に追い込まれていたということが見えてきます。

ここでいう「強制」とは、なにも赤松元戦隊長が直接「軍命」を出したか出していないかという一部分の問題ではなく、例えば、それまで陣地構築と漁労班に従事していた16歳~45歳までの男子は防衛隊に編制され、女子青年団は炊事班などに配属され、漁船も軍の指揮下に置かれ渡航も許可制になり、村役場なども軍の施設となり、秘密基地ということことで住民は日本軍の厳しい統制下におかれていたこと。

こうした「軍官民共生共死」の一体化体制のもと、渡嘉敷島では住民に米軍への恐怖を植え付け、「軍事機密漏洩防止」のため、住民の敵への降伏を許さない方針をとり、住民虐殺も行なわれていること。住民に事前に「これで死になさい」と手榴弾が配られていること。こうした降伏しないで死を選ぶよう軍が関与し強制していたということです。


■次に、「死者たちは、いまだ眠れず」大田昌秀(新泉社・2006年)から赤松元戦隊長について書かれた箇所を抜き出してみます。

P68.69.70より
赤松元戦隊長は、1968年4月「琉球新報」の記者の質問に答え、住民は軍の任務を知らないから、「集団自決」を軍命によるものと考えたのだろう、と言い、自分は「絶対に命令したのではない」とこう反論しました。

「(集団)自決のあったあと報告を受けた。しかし、防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。当時の住民感情から、死んで部隊の足手まといにならぬようにという気持ちだったと思う……。軍の壕といってもお粗末なもので住民が入れるような所ではなかった。同じようなケースの自決は沖縄にはいくらでもあったはずだが、なぜ渡嘉敷島だけ問題にするのか、私にはよくわからない。日本が勝っておれば、自決した人達も靖国に祀られたはずだ。」(琉球新報 1968年4月8日付)

また、スパイ容疑で殺された人たちについて彼は、「私が処刑したのは、大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。私の知らないものもあるが、当時の状況からやむをえなかった」と一部は認めています。

彼自身が住民から悪評をかっていることについては、特攻隊のような花々しい戦闘を住民は期待したのだろうが第三挺進戦隊にはそれができなかったこと、それに(渡嘉敷島が)小さい共同体のことだから当時の隊長であった彼を悪人に仕立てた方が都合がよかったからではないか、とも述べています。

なお戦後の心境については「私のとった措置は、万全のものではないだろうが、あの時点では正しかったと思う。なにしろ戦闘なのだから、現在の感覚と尺度では、はかりようがない。週刊誌に若気のいたりとか不徳のいたすところなどと私が言ったとあるが、あれはいわば社交辞令だ」と言うとともに、「防衛庁の記録にも私の処置が正しかったことが書かれている」と開きなおる態度も見せたようです。

これに対し、戦争当時渡嘉敷島の村長をしていた米田惟好(よねだいこう)旧姓・古波倉は「……反省しているだろうと思い、いまさら彼一人を責めるのはよそうと思っていたのに、このシラを切った態度は、常識では考えられない。これでは自決を強いられて亡くなった人達の霊も浮かぶまい」と批判しています。
(山川「秘録 沖縄戦史」読売新聞社・1969年)
(琉球新報 1968年4月8日付)




<渡嘉敷島の集団自決関連ニュース>

■全員自決の訓示否定せず
大阪地裁 沖縄戦「集団自決」裁判 元軍人ら証言
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-28/2007072815_02_0.html
(2007/07/28 赤旗 一部抜粋)
皆本氏は原告代理人の主尋問にたいし、赤松戦隊長とは親しく、戦隊と島の住民とも良好な関係にあり、「集団自決」についても、切迫した戦況のもとで「軍命令など出す余裕はなかった」と全面否定しました。

しかし被告代理人の反対尋問では「『集団自決』の隊長命令は聞いてない」としながら、「米軍との戦闘が中心で赤松戦隊長とは別行動だった」と戦隊長の動向を知る立場になかったことを証言。太平洋戦争開戦を記念する「大詔奉載日」の儀式で「米軍が上陸したときには、全員が自決する」との訓示があったのではないかとの質問に「赤松戦隊長あるいは代理が参加し、(訓示は)あったと思う」と否定しませんでした。


<沖縄戦集団自決について参考になるサイトやブログ>

■沖縄戦で集団自決を巡る議論について
http://www.geocities.jp/forever_omegatribe/okinawa.html

■愛・蔵太の少し調べて書く日記
[沖縄戦]沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070622/aniya05
「裁かれた沖縄戦」安仁屋政昭編のP23~52までを5回シリーズでテキスト化してくれてます。

■15年戦争資料 @wiki 集団自決などをめぐって
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/62.html
目次:「ある神話の背景」論争
太田良博氏の曽野批判:1985年4月8日から10回連載
曽野綾子氏の反論1985年5月1日~6日
太田良博氏の曽野氏への再反論1985年5月11~17日

■[沖縄関係] 林 博史教授の論文
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/12paper.htm#%89%AB%93%EA


このエントリーは書きかけです。なんだかうまくまとまらなくなってきたので、別エントリーをあげようかと考えています。あと、「拍手」を付けてみました。クリックしてもらえると管理人が喜びます。)

続きです。渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度(2)

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これに対し、戦争当時渡嘉敷島の村長をしていた米田惟好(よねだいこう)旧姓・古波倉は「……反省しているだろうと思い、いまさら彼一人を責めるのはよそうと思っていたのに、このシラを切った態度は、常識では考えられない。これでは自決を強いられて亡くなった人達の霊も浮かぶまい」と批判しています。(山川「秘録 沖縄戦史」読売新聞社・1969年)

これもちょっとおかしいですね。山川書であろうはずはなく新聞報道(琉球新報 1968年4月8日付)です。ちょっと文字が小さいですが。http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=991&file=ryusin680408.jpg

ちょっとその本は典拠クレジット間違いだらけですね。

ni0615 | URL | 2008/01/11/Fri 20:57 [EDIT]
ni0615さん、わざわざ教えていただきありがとうございます。
リンク先はちと文字が小さくて読めなかったので

ここで確認してみました。
http://esashib.hp.infoseek.co.jp/nankin01.htm

確かに、琉球新報、68年4月8日ですね。訂正しておきます。それと、「はてな」の方にもらった指摘は確認できないんですがどうしましょ。訂正しておいたほうがいいんでしょうかね?
やっしゃん | URL | 2008/01/12/Sat 00:41 [EDIT]

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