<上>魂の記録 終戦日を前に ミンダナオ島でつづられた日記
(2007年8月10日 東京新聞 キャッシュ)
(群馬県)安中市磯部の旧家から今春、太平洋戦争の末期にフィリピン南部のミンダナオ島で密林をさまよった旧日本兵、故・大手守さんの日記が見つかった。無残な遺体の数々、生死を分けた銃弾、そして極限の飢えに“人肉”を求める戦友…。奇跡的に生還した兵士が密林でつづった日記は極めて珍しい。十五日に丸六十二年となる終戦の日を前に、壮絶な「魂の記録」から平和と命の尊さを再考したい。(菅原洋)
■死者 口や鼻にハエが黒山のように…
手のひらサイズのメモ帳。表紙と中の紙に、薄茶色の染みが点々と付く。汗か、雨水か、それとも血なのか。
日記は日本軍がいた同島西端のサンボアンガに、米軍が上陸した一九四五(昭和二十)年春に始まる。敗れた日本軍はグループに分かれ、散り散りとなって逃げた。
三月三十一日 落後者しきりなり。かわいそうだが、何もしてやれず。彼らは誰一人みとられず命の灯を消すのだ。
四月二十七日 落後者には口や鼻にハエが黒山のようにたかる。この姿のようには絶対ならない、と歯を食いしばって一歩一歩歩む。
五月十七日 遺体の傍らを通り過ぎる時は最初は黙とうしていたが、感覚がまひしてきた。
■飢餓 タニシやカエルネコまでも食べ
木の実、タニシ、カエル、ネコ、イヌまでも食べる日々。飢えが戦友同士を切り裂いていく。
五月七日 誰もが真っ先に自分のことを考える。戦友とは、親友とは何だろう。いざとなれば、食うか食われるかの仲になるだろう。
六月二日 鈴木君と口論する。イモなどを全部渡して決別した。食い物のために昨日の友も今日の敵か。
ついに、飢えは人間の精神を狂わせ始める。
六月十二日 アジア系の外国人を一人拾った。ある戦友(日記では実名)が「この男を殺して食おう」。私は反対する。そのうちに水を飲んでいるサルを見つけ、木の枝で生け捕りにした。外国人を助け、サルと人間の命を交換した。
■生死 荷物に弾痕あり一瞬全身が凍る
突然銃撃が襲い、何度も生死の境に直面した。
六月二十八日 背中の荷物を取ると、荷物に弾痕があった。伏せた時に当たったのだろう。頭を上げていたら、直撃していた。冷水を浴びせられたように、一瞬全身が凍る。食べ物ものどを通らない。
死の瀬戸際から、ようやく希望が見えた。終戦から一カ月以上を経て、日本の敗戦を知る。
九月二十七日 思えば長く、苦しい放浪だった。心の中で期待はしていたが、それが今実現しようとしているのだ。夜は取って置きの米を赤飯にした。感無量なり。
大手さんはレイテ島の収容所を経て、その年の年末ごろに帰国した。
(以上)
<下>魂の記録 終戦日を前に 生きて帰れさえすれば 壮絶な体験 家族に語らず
(2007年8月10日 東京新聞 キャッシュ)
このような貴重な資料を公表してくださった遺族の方には感謝したいと思います。そして、旧日本軍の敗残兵によるカニバリズム(人肉食)事件がなぜ起きたのか興味をもちました。
(追記)
で、さっそく「ゆきゆきて、神軍」のDVDを注文し、図書館で「棄てられた日本兵の人肉食事件 著 永尾俊彦」を借りてきました。後で内容をアップしようと思います。
太平洋戦線の島嶼等で日本軍は各地で食糧補給が途絶したため、戦死した兵士の死体や落伍した兵士を密かに殺すなどしてその肉を奪い合って食べる事態が頻発し、軍上層部でも問題となった。これに対し、1944年12月にニューギニア戦線の日本軍第十八軍は「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」とし、これに反した4名が処刑されたが、この布告は餓死寸前の末端兵士たちにはむしろ生存手段としての人肉食を示唆することになった(敵軍将兵の死体は食べても罰するという記述は無く、フィリピンのミンダナオ島では非戦闘員を含む住民が日本兵に殺害され、食べられるという事件が起こっている。)前述のように、主に日本軍による人肉食が発生した戦場はインパール・ニューギニア・フィリピン・ガダルカナルなどである。日本軍による連合軍兵士に対する人肉食は、多くが飢餓による緊急避難であったことや、人肉食に遭った兵士の遺族に対する感情などを考慮した結果、その多くは戦犯として裁かれることはなかった。奥崎謙三は部下の肉を食べた上官の戦争責任を追及すべく活動しており、その様子は映画「ゆきゆきて、神軍」に収められている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」
周囲4キロを米軍に包囲されるという極限状況のジャングルで、1万数千人の日本軍の間では、飢えと疲労から人肉食がおこなわれていた。関係者はポツリポツリとあるいは平然と、その事実を打ち明ける。2人の日本兵は、その事実を隠蔽するために殺されたらしい。関西のある食堂のおやじは白人を白ブタ、原住民を黒ブタと称していたことを話し始める。
「じゃあ、ブタというのはすべて人肉のことだったんですね」
「土人のブタを取ったら、土人から殺されるからね」
「でも白ブタも黒ブタも捕まえられないこともあったでしょう。そういう時は部隊の下の方から殺して順番に食べていったんじゃないですか」
「いや、私のいた部隊では日本兵は食べなかった」
http://homepage3.nifty.com/cinema1987/moviecritic/review12.html
手塚治虫のお父さんはフィリピンの奥地に行って、空腹の毎日を暮らしていたが、本当に何もなくなると誰かがちゃんと「野豚」を捕まえてきて食べさせてくれたという。お父さんは何かを見てしまった、そしてそれを隠しているような怯えをみせたという。それが「ゆきゆきて、神軍」を観て何だか答が分かったというのです。
http://www.toyama-cmt.ac.jp/%7Ekanagawa/cinema/singun.html
辺見庸「もの食う人々」
「ミンダナオ島の食の悲劇」と題する節は、私はもっとも迫力を覚え、胃袋のどこかに不消化な異物をいつまでも感覚するような、そういう読後感をもった。74歳の老農民サレの案内でミンダナオの山中深くに入っていく。敗戦後2年間にわたって残留抵抗した日本兵らの小屋のあった場所までいく。案内のサレ老人は残留日本兵の掃討作戦に参加したことがあるのである。日本兵はフィリピン現地人をとらえて食べていた。マニラの公文書館に戦争犯罪記録(49年、英文)が、日本軍揚陸隊兵士十数人の証言を伝えている。
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/ugo/oe/kibo2.htm
産経「正論」も認める
戦後、マニラ東方山地にこもった振武集団の参謀長だった少将が、集団で人肉を食べた兵たちを銃殺刑にした事実を暴露した。
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2005/0509/photogallery2.html
いつも応援クリックありがとうございます。

(2007年8月10日 東京新聞 キャッシュ)
(群馬県)安中市磯部の旧家から今春、太平洋戦争の末期にフィリピン南部のミンダナオ島で密林をさまよった旧日本兵、故・大手守さんの日記が見つかった。無残な遺体の数々、生死を分けた銃弾、そして極限の飢えに“人肉”を求める戦友…。奇跡的に生還した兵士が密林でつづった日記は極めて珍しい。十五日に丸六十二年となる終戦の日を前に、壮絶な「魂の記録」から平和と命の尊さを再考したい。(菅原洋)
■死者 口や鼻にハエが黒山のように…
手のひらサイズのメモ帳。表紙と中の紙に、薄茶色の染みが点々と付く。汗か、雨水か、それとも血なのか。
日記は日本軍がいた同島西端のサンボアンガに、米軍が上陸した一九四五(昭和二十)年春に始まる。敗れた日本軍はグループに分かれ、散り散りとなって逃げた。
三月三十一日 落後者しきりなり。かわいそうだが、何もしてやれず。彼らは誰一人みとられず命の灯を消すのだ。
四月二十七日 落後者には口や鼻にハエが黒山のようにたかる。この姿のようには絶対ならない、と歯を食いしばって一歩一歩歩む。
五月十七日 遺体の傍らを通り過ぎる時は最初は黙とうしていたが、感覚がまひしてきた。
■飢餓 タニシやカエルネコまでも食べ
木の実、タニシ、カエル、ネコ、イヌまでも食べる日々。飢えが戦友同士を切り裂いていく。
五月七日 誰もが真っ先に自分のことを考える。戦友とは、親友とは何だろう。いざとなれば、食うか食われるかの仲になるだろう。
六月二日 鈴木君と口論する。イモなどを全部渡して決別した。食い物のために昨日の友も今日の敵か。
ついに、飢えは人間の精神を狂わせ始める。
六月十二日 アジア系の外国人を一人拾った。ある戦友(日記では実名)が「この男を殺して食おう」。私は反対する。そのうちに水を飲んでいるサルを見つけ、木の枝で生け捕りにした。外国人を助け、サルと人間の命を交換した。
■生死 荷物に弾痕あり一瞬全身が凍る
突然銃撃が襲い、何度も生死の境に直面した。
六月二十八日 背中の荷物を取ると、荷物に弾痕があった。伏せた時に当たったのだろう。頭を上げていたら、直撃していた。冷水を浴びせられたように、一瞬全身が凍る。食べ物ものどを通らない。
死の瀬戸際から、ようやく希望が見えた。終戦から一カ月以上を経て、日本の敗戦を知る。
九月二十七日 思えば長く、苦しい放浪だった。心の中で期待はしていたが、それが今実現しようとしているのだ。夜は取って置きの米を赤飯にした。感無量なり。
大手さんはレイテ島の収容所を経て、その年の年末ごろに帰国した。
(以上)
<下>魂の記録 終戦日を前に 生きて帰れさえすれば 壮絶な体験 家族に語らず
(2007年8月10日 東京新聞 キャッシュ)
このような貴重な資料を公表してくださった遺族の方には感謝したいと思います。そして、旧日本軍の敗残兵によるカニバリズム(人肉食)事件がなぜ起きたのか興味をもちました。
(追記)
で、さっそく「ゆきゆきて、神軍」のDVDを注文し、図書館で「棄てられた日本兵の人肉食事件 著 永尾俊彦」を借りてきました。後で内容をアップしようと思います。
太平洋戦線の島嶼等で日本軍は各地で食糧補給が途絶したため、戦死した兵士の死体や落伍した兵士を密かに殺すなどしてその肉を奪い合って食べる事態が頻発し、軍上層部でも問題となった。これに対し、1944年12月にニューギニア戦線の日本軍第十八軍は「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」とし、これに反した4名が処刑されたが、この布告は餓死寸前の末端兵士たちにはむしろ生存手段としての人肉食を示唆することになった(敵軍将兵の死体は食べても罰するという記述は無く、フィリピンのミンダナオ島では非戦闘員を含む住民が日本兵に殺害され、食べられるという事件が起こっている。)前述のように、主に日本軍による人肉食が発生した戦場はインパール・ニューギニア・フィリピン・ガダルカナルなどである。日本軍による連合軍兵士に対する人肉食は、多くが飢餓による緊急避難であったことや、人肉食に遭った兵士の遺族に対する感情などを考慮した結果、その多くは戦犯として裁かれることはなかった。奥崎謙三は部下の肉を食べた上官の戦争責任を追及すべく活動しており、その様子は映画「ゆきゆきて、神軍」に収められている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」
周囲4キロを米軍に包囲されるという極限状況のジャングルで、1万数千人の日本軍の間では、飢えと疲労から人肉食がおこなわれていた。関係者はポツリポツリとあるいは平然と、その事実を打ち明ける。2人の日本兵は、その事実を隠蔽するために殺されたらしい。関西のある食堂のおやじは白人を白ブタ、原住民を黒ブタと称していたことを話し始める。
「じゃあ、ブタというのはすべて人肉のことだったんですね」
「土人のブタを取ったら、土人から殺されるからね」
「でも白ブタも黒ブタも捕まえられないこともあったでしょう。そういう時は部隊の下の方から殺して順番に食べていったんじゃないですか」
「いや、私のいた部隊では日本兵は食べなかった」
http://homepage3.nifty.com/cinema1987/moviecritic/review12.html
手塚治虫のお父さんはフィリピンの奥地に行って、空腹の毎日を暮らしていたが、本当に何もなくなると誰かがちゃんと「野豚」を捕まえてきて食べさせてくれたという。お父さんは何かを見てしまった、そしてそれを隠しているような怯えをみせたという。それが「ゆきゆきて、神軍」を観て何だか答が分かったというのです。
http://www.toyama-cmt.ac.jp/%7Ekanagawa/cinema/singun.html
辺見庸「もの食う人々」
「ミンダナオ島の食の悲劇」と題する節は、私はもっとも迫力を覚え、胃袋のどこかに不消化な異物をいつまでも感覚するような、そういう読後感をもった。74歳の老農民サレの案内でミンダナオの山中深くに入っていく。敗戦後2年間にわたって残留抵抗した日本兵らの小屋のあった場所までいく。案内のサレ老人は残留日本兵の掃討作戦に参加したことがあるのである。日本兵はフィリピン現地人をとらえて食べていた。マニラの公文書館に戦争犯罪記録(49年、英文)が、日本軍揚陸隊兵士十数人の証言を伝えている。
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/ugo/oe/kibo2.htm
産経「正論」も認める
戦後、マニラ東方山地にこもった振武集団の参謀長だった少将が、集団で人肉を食べた兵たちを銃殺刑にした事実を暴露した。
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