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渡嘉敷島での軍夫の逃亡事件と第三戦隊による処刑(下)
渡嘉敷島での軍夫の逃亡事件と第三戦隊による処刑(上)の続きです。

赤瓦の家―朝鮮から来た従軍慰安婦(川田文子、筑摩書房、1987年)
p160~171 軍夫の逃亡

陣中日誌には、逃亡事件と軍夫らについて次のような記述がある。(軍夫についての記述は復刻版発刊に際して加えられたものと思われる)

〈六月三十日 ○六〇〇 第三中隊所属水上勤務隊軍夫吉本(名不詳)より岩村班等昨夜逃亡せる旨報告あり、一四三〇 阿波連駐止斥候連下隊(れんげたい)より連絡兵二名特設水上勤務隊曾根一等兵を主謀とする某事件の報告を受く。一八○○ (*1)新海中尉以下二十二名捜索隊を編成、曾根一等兵以下の偵察に出発す。
某事件とは
特設水上勤務隊斎田少尉以下二四〇名朝鮮人を主力とする軍夫で戦隊の舟艇を秘匿する舟艇壕の掘進、舟艇の泛水、引揚、器材の運搬を目的として集められ戦場へかり出されたものである。敵の上陸後は西山複廓陣地に於いて日夜連日陣地作り(防空壕、タコ壺掘り)弾薬器材の集積に従事し武装する兵器なく、唯自決用の手榴弾一コのみ与えられたるまったくの丸腰である。敵弾の落下する中、不足したる食糧に飢え精神的な焦燥に耐え切れず敵軍に集団投降を企て逃亡したる事件である。〉

敵前逃亡は発覚すれば死刑は免れない。この生命がけの行動を約二十名の軍夫は呼びかけられると同時に決断した。約二十名もの軍夫がこの決死行を瞬時に決意したのは、それ以前に第三戦隊で、死ぬ以上の苦しみを味わい尽していたからである。軍夫の置かれていた状況からすれば、第三戦隊にとどまって生きのびることの方がむしろ困難だという実感が、曾根氏以上に濃厚だったとしても不思議ではない。

逃亡を呼びかけられたが、踏みきれない軍夫もいた。二三四高地で生き抜く困難を承知していても、逃亡の成功も確信できなかったし、仮に米軍への投降が成功したにしても、米軍が捕虜に対してどのような扱いをするのか、咄嗟(とっさ)には推測できなかったからだ。

―――軍夫長が話したのは一時間もないんだ。三十分か四十分位。それですぐ降りたんすけんな。わずかな時間じゃけん、咄嗟に決断のつかない軍夫はおったんだろうと思う。(中略)

戦隊本部が曾根氏と軍夫らの逃亡を把握したのは午前六時、すでに一行が渡嘉志久(とかしく)に到着している頃だ。最初に連絡に駈けつけたのは、曾根氏と同じ第三中隊に所属していた朝鮮人軍夫の吉本であった。第三中隊の壕から本部まで、たいして離れてはいない。吉本が本部へ報告に行ったのは、一行が二三四高地を出て数時間もしてからだ。

本部から阿波連(あはれん)陣地へ有線通信が通じれば、渡嘉志久に近い阿波連から捜索隊を急行させるということも戦隊幹部は考えたろう。だが、三月下旬の空襲で通信線は切断され、復旧されないまま放置されていた。阿波連とは徒歩以外に連絡の方法はない。軍夫逃亡に気づいた阿波連から駐止斥候隊の連絡兵二名が本部へ駈けつけたのは午後二時半である。そして、曾根一等兵の直属上官である第三中隊長新海中尉以下二十二名が捜索に出るのが午後六時。対応の遅れが目につくが、日中、大がかりな捜索をくり出すのは米軍の砲弾に当たりに行くようなものであったから、日没を待っての出発になったのだろう。

米軍の上陸舟艇で座間味島に連れて行かれた曾根一等兵と軍夫は、別々の収容所に入れられた。慰安所にいた女たちも別の収容所に入れられたようだ。六月三十日未明の数時間、決死の行動をともにした軍夫や女だちとは、それっきりになった。

そして、問もなく、曾根一等兵は米軍の取調べを受けた。通訳には沖縄本島の糸満出身だという日系二世の米兵があたっていた。(中略)曾根氏は通訳を通して執拗に繰返される質問に、「自分は無学で地図の見方は分らない」の一点張りで、返答を頑強に拒絶した。担当官は首を大きく横に振って、取調べを断念した。

座間味島の収容所では、阿嘉(あか)島の第二戦隊から投降していた染谷少尉と顔を合わせた。座間味島の第一戦隊長梅沢裕少佐も米軍に投降してすでに久しいと聞いた。

二十名余の軍夫らを率いての曾根一等兵の米軍役降は、第三戦隊幹部に大恐慌を巻き起こしたことが、陣中日誌を辿ると容易に想像される。いや、それ以前、六月二十二日の沖繩本島軍司令部の「最後の斬り込みを敢行す」の電報が、二三四高地の小さな谷問に追い込まれている第三戦隊幹部に決定的な打撃を与えていたに違いない。

二十二日を起点に、これまで大日本帝国の天皇の軍隊として第三戦隊を支えてきたものが、急速に崩壊しはじめ、その崩壊感覚の中で赤松戦隊長をはじめ、戦隊幹部は、狂気にかられていく。そのぎざしは、二十六日、軍夫三名に対する“処刑”となって現れた。

〈六月二十六日 作業に陣地蜂に出る者、部落民に糧秣を強要する者あり。強奪せしものは厳罰に処す旨各部隊に通報す。水上勤務隊軍夫三名氏名不詳、恩納河原(おんなかわら)に於いて糧秣を強要したる模様なり。〉

陣中日誌には住民に糧秣を強要した軍夫三名に対する処罰がどのように行なわれたか、明らかにされていない。三名の軍夫は“処刑”されたのである。元第三戦隊副官知念朝睦(ちねんちょうぼく)少尉は、三名の“処刑”にあたったことを証言している。知念副官は沖縄出身の将校である。(中略)日本兵以上に栄養失調に陥っている軍夫が、人目を盗んで住民の食料を盗んだことは確かにあっただろう。(中略)軍夫が日本兵以上に空腹に耐えていることを島の人々は知ってはいたが、同情だけで食物を分け与えられるような余裕は微塵もなかった。軍夫が食物を手に入れようとすれば、
盗むか、強奪するしかなかったのである。

わずかな食料がもとで三名の同胞が日本軍によって殺されたという事件は、軍夫長フクダが曾根一等兵からの米軍への投降を伝えた時、軍夫たちの咄嗟の判断に少なからぬ影響を与えたに違いない。

そして、六月三十日の曾根一等兵と軍夫らの米軍への集団投降成功後には、戦隊幹部の狂気はさらに沖縄住民に向けられていく。

〈七月二日……晴れ 日時不詳。防衛隊員大城(おおしろ)徳安 数度に亘り陣地より脱走中発見、敵に通ずる虞(おそれ)ありとして処刑す。〉

大城徳安防衛隊員は渡嘉敷国民学校の教頭であった。(中略)

この日の陣中日誌はもうひとつの“処刑”を記している。

〈米軍に捕えられたる伊江島の住民米軍の指示により投降勧告、戦争忌避の目的を以って陣地に進入、前信(ママ)陣地之(これ)を捕らえ戦隊長に報告、戦隊長之を拒絶、陣地の状熊を暴路したる上は日本人として自決を勧告す、女子自決を諾し斬首を希望自決を抱(ママ)助す。〉

知念元副官によれば“処刑”されたのは男女四名である。刑執行は、戦隊長命令で経験を積むためにと“斬首”の経験のない者に命じられた。そのため、同名のうち女性一名が完全に死にきれないまま土をかぶせられた。その女性は首筋に重傷を負いながらも自力で土中から這い出し、その場を逃れた。だが、再び捕えられ、二度目の“処刑”は知念副官が行なった。

知念副官は以前、米軍によって渡嘉敷島に移住させられた伊江村民の収容所に情報収集のため潜入したことがあった。その時、逃げ出した女性とは顔見知りになっていた。沖縄出身であることから、知念副官にその女性を逃がした嫌疑がかけられ、二度目の刑執行は知念副官に命じられたのである。

二件の沖縄住民虐殺の後、第三戦隊は思い出したかのように逃亡者捜索隊を再度繰出した。

〈七月四日 知念小(ママ)尉以下十名、曾根一等兵及軍夫捜索の為、渡嘉敷島南部阿波連(あはれん)方面に向い出発す。〉

そして翌日、この捜索隊は″逃亡者四名″を発見、本部に連れ帰る。

〈七月五日 ○二〇〇 須賀上等兵以下二名、捜索隊より帰隊す。一三〇〇 捜索隊河崎軍曹以下七名逃亡者四名を逮捕し、本部に護送帰隊す。本日を以って捜索隊を解散各原隊に復帰せしむ。〉

曾根氏が率いた二十名余の軍夫らは全員米軍に投降している。河崎軍曹以下七名の捜索隊が本部に護送したという「逃亡者四名」とは、はたしてどんな″逃亡者″だったのか。少なくとも曾根氏が率いた軍夫でないことは確かだ。

曾根氏が軍夫長フクダを通して脱出を呼びかけた時、決断しきれなかった軍夫が、曾根氏らの米軍投降の成功を見て、その後を追ったことはあり得よう。直接フクダから誘いかけられたのではなくても、同胞の投降成功に力を得て、意を決して行動に走った者がいた、とも想像できる。しかし、それなら、再度起った軍夫らの逃亡は、当然、陣中日誌に記載されるはずだ。が、それにあたる記述はない。

ここでひとつの推測が成り立つ。「逃亡者四名」の発見は、第三戦隊幹部のデッチあげではなかったか。

曾根一等兵と軍夫らが姿を消してから、すでに四、五日を経過している。逃亡者が米軍に投降したことは、間もなく誰の目にも明らかとなろう。食料もなく、米軍にとり囲まれた小さな島で、第三戦隊の目に触れずに生き伸びることなど、とうてい不可能だからだ。投降に失敗して生命を落したとすれば、屍体や遺品がいずれ発見されるはずだ。二十名余の米軍投降成功は、隠し通せはしない。が、第三戦隊幹部は、絶対にそれを看過するわけにはいかなかった。このまま見過ごせば、第三戦隊の統率力はなし崩しになる。少なくとも今後、逃亡の歯止めは何もなくなる。どうしても逃亡者に対する制裁の儀式が行なわれなければならなかった。そこで、事件とは何の関わりもない四名の軍夫が制裁の儀式の犠牲として引立てられたのではなかったか。

制裁の儀式がすめば、逃亡者と逮捕者の人数の帳尻か合わなくても、一応目的ははたせ、「本日を以って捜索隊を解散各原隊に復帰せしむ」と、第三戦隊に於ける曾根一等兵と軍夫らの米軍投降事件は、落着するのである。

第三戦隊が六月二十二日、沖縄本島軍司令部からの「最後の斬り込みを敢行す」の電報を受けてからわずか二週間の間に、明らかにされているだけでも、沖縄住民に対する″処刑″が二件、朝鮮人軍夫に対する″処刑″が一件、計八名が日本軍の手によって生命を奪われた。これに「逃亡者四名」を加えると、その数は十二名になる。この他にも、日時は不詳であるが、軍夫の″処刑″が阿波連(あはれん)の斥候連下隊に於いて行なわれたことを知念氏が証言している。また、曾根氏は、軍夫を″処刑″したとして特設水上勤務隊小隊長斎田少尉が捕虜収容所の中で追及されるのを目撃した。

―――あれは軍夫が反抗したとか何とかでなくて、栄養失調で弱って仕事できんようになったんでしょうね。命令しても動けなくなって、坐り込んでしもうた。それを斎田少尉が横着で仕事せんように判断して処刑した。収容所で軍夫たちからだいぶ追及されよったね。斎田少尉もいいわけして、あれは殺さんでも、処刑しなくても死にそうじゃったんじゃ言うてね、いろいろいいわけしとりました。軍夫たちもそれ以上追及しなかった。斎田少尉という人、悪い人でなかったんですけど、見せしめのためにやったんやろ、思うんです。

軍夫の死亡は、第三戦隊による″処刑″はもちろん、四月十六日以降、戦死も、戦病死も、栄養失調による死も、いっさい、陣中日誌には記載されていない。

(中略)話しの途中、曾根氏は老夫人が茶を入れたついでに、しばらく耳を傾けていたりすると、質問への回答を曖昧にはぐらかした。二、三回それが続いて怪訝(かいが)に思っていると、何気ない素振りで私を初夏の庭先へと誘った。午前の澄んだ日射しが心地よかった。塀や垣根といった遮蔽物がなく、庭の造木は周囲の田畑や道にとけ込んでいた。築山や庭木がほどよく配され、手入れのゆきとどいた庭に見とれていると、背後で、外へ連れ出した理由が明かされた。

「あの件は、妻にも家族にも話しておらないんです。私のとった行動は決して恥ずべきことではない、と思っておるが、その一方で、あの一件を明かせば、この辺りでも批難中傷する人が出てくるだろうことも充分承知しております。……」

(中略)私は慄然とした。保守的基盤に執拗に呪縛されている風土の中で、持続し続けてきた老農夫の孤高な反骨の精神に触れた思いがした。(中略)私は曾根氏に、ずっと気になっていたことがらを問おうか、問うまいか、ちゅうちょしていた。どうきり出してよいか分らなかった。しかし、それをちゅうちょして問わないことは、曾根氏にも、披差別部落で、故のない差別に呻吟している人々にも失礼になる。私は尋ねた。

「曾根さんは披差別部落出身で、牛や豚の肉を捌(さば)くのが上手いので、現地自活班に入れられたのだと、赤松さんが言っていたのですが……」

二、三秒、静かな時が流れた。それから、吐息の混った低い声で曾根氏は答えた。

「わたしは違います。しかし、そういうことを言って人をおとしめたつもりになっているあの方の、人間としての品性を疑いますね」

(以上)

map-tokasiki.jpg
渡嘉敷島の戦闘地図(クリックすると大きくなります。)

【追記】

(*1)赤松嘉次元戦隊長によると新海中尉はのちに栄養失調で亡くなったそうです。

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渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度


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渡嘉敷島での軍夫の逃亡事件と第三戦隊による処刑(上)
赤瓦の家―朝鮮から来た従軍慰安婦(筑摩書房、1987年)本書は川田文子氏が1944年に朝鮮から沖縄の渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島の慰安所に連れてこられた朝鮮人女性21人のうちの1人ペ・ポンギさんを取材して書かれたルポタージュなんですが、沖縄戦についても多くの証言が収録されています。その中に渡嘉敷島で曾根という一等兵が慰安婦(キクマルとスズランの2人)と朝鮮人軍夫約20名を連れて米軍に投降した事件について取材されている箇所があるのでOCRかましてP146~P171までをテキスト化してみました。


P146~P160 軍夫の逃亡

一九四五年六月三十日、曾根という一等兵が朝鮮人軍夫を連れて二三四高地を脱出、米軍に投降したという事件があった。第三戦隊の元将兵によれば、この時、慰安所の女も一緒だったという。第三戦隊の隊長であった赤松嘉次氏は次のように語った。

―――女の方は曾根一等兵と一緒、バラバラではとても複廓陣地(二三四高地)を出られません。友軍が陣地の周囲に歩哨(ほしょう)を置いているし、敵との間に距離がある。そこに地雷があるし、夜が明けると米軍にやられるから通れない。
 
当時も今も阿波連(あはれん)に住んでおられ、現地召集された元防衛隊員の大城良平氏は、歩哨に立っていた兵隊から次のように聞いた。

―――その時に姿を見たという歩哨の兵隊によると、やっぱり女連中も鉄兜披って、軍服つけとった、となるがね。

キクマルとスズランは、同胞の軍夫らとともに米軍に投降したようだ。この一団を率いたといわれている曾根一等兵は、赤松元戦隊長によると四国・松山の披差別部落出身で、現地自活班に組込まれていたという。

―――牛なんか殺してうまく料理してくれましたよ。その関係で現地自活班に入っていました。西山(二三四高地)に本部を置いた時、阿波連では自活班が倒れた家の下から塩干とか、いろんな食べ物を掘り出したり、豚とか山羊をとって軍夫が夜運んでくる。それをうまい具合にさばいていました。

現地自活班は主として地元出身の防衛隊員や朝鮮人軍夫で構成されていた。阿波連の現地自活班で炊事班長をしていた大城元防衛隊員は、軍夫逃亡事件の概要を次のように語った。

―――曽根という男は俺の所から逃げた。(中略)軍夫は炊事班に五名はおった。私が炊事班長を務めて、この方たちを使って炊事をやらした。この方たちも皆、曾根がひっぱって逃げた。

大城元防衛隊員の証言から、曾根一等兵が軍夫らと綿密に連絡をとった上での逃亡実行であっただろうことがうかがえる。知念朝睦(ちょうぼく)元副官も同様に指摘した。

―――軍夫、朝鮮の方たち、あのときいっせいにいなくなりました。(中略)曾根一等兵は朝鮮語うまかったんじゃないですか。

私は曾根一等兵に会いたいと思った。曾根一等兵に会えば、キクマルとスズランの戦後の動向までは分からないにしても、渡嘉敷島からの脱出が無事に果たされたか否か分かるはずだ。(中略)曾根一等兵に関しては、実は数年前一度、(厚生省に)本籍調査を依頼したことがある。(中略)本来の目的を曖昧にしたのがいけなかったのだろう。二、三回の電話の対応で断られた。その後、私は出産で身動きとれなくなり、曾根一等兵に会わずにいることが気がかりになりながら原稿を書き進めていた。(中略)改めて厚生省にダイヤルを回し、取材を告げた。(中略)曾根一等兵の名前が見つけ出された。私の胸は高ぶった。数年来、気になりながら出会えずにいた人が、遠い距離を隔ててはいるが、受話器の向こうにいる。

「何でもお話ししますよ。今でも私は自分のしたことが間違いであったとは思わないし、何ら後めたいところもありません」きっぱりとした口調であった。「今でも残念でならないのは、日本の兵隊を一人も連れて来れなかったことです。あの後、戦友が何人も死んでいます。なぜ、あの時、誘い出せなかったのか……」

(中略)曾根氏は松山の出身ではなかった。松山の近くの土居町が本籍地で、現在もそこに住んでおられる。初夏、私は二歳の娘を連れて、教えられた予讃本線の伊予土居に向かった。(中略)曾根氏は農家の次男として愛媛県土居町に生まれ育った。(中略)二十歳の時、神戸に出、ダンロップ工場に勤めた。(中略)その後、小倉に移り、妻を娶(めと)って食料品販売業を営んでいたが、戦況が悪化したため、一九四四年四月、土居町へ家族を連れて帰ってきた。召集令状が届いたのは、そのわずか二か月後の六月である。もうすでに三十代半ば。十歳になる長女を頭に三人の娘がいた。家族を残して、身を切られるような出征であった。

そして、九月、第三港設隊(海上挺進基地第三大隊)として編成され、宇品を出発した。(中略)それでも、渡嘉敷島に到着した当初は、基地隊の将兵誰もが、沖縄は敗けない、敗けられるものか、と思っていた。沖縄が陥されれば南方への交通は遮断されてしまう。ここはどうしても死守しなければ、と曾根氏自身も思っていた。(中略)

―――沖縄が占領されるようになって、これはあかんと思いましたね。海に浮いているのはみな敵の軍艦、空飛ぶのは全部敵の飛行機。(中略)本当に今日、よう生きのびた。生命がようあったなと思うことが何度もありましたからね。迫撃砲何度もくぐってね。(中略)

もはや、二三四高地で生存も危ういほどの飢餓に耐え、砲弾の下をかいくぐって任務を遂行することに何の意味も見出せなかった。犬死にしたくはなかった。今、米軍に投降すれば生命を落さずにすむ。戦友にもそう呼びかけたかった。だが、徹底した皇国思想、軍国教育を叩き込まれている日本兵に米軍への投降を呼びかけるのは危険だった。この期に及んで、未だに神国日本は必ず勝つ、と狂信している者も少なくなく、客観的な見通しをおくびに出すことさえはばかられた。実際、誰れが密告したのか、中隊長に呼び出されて、「貴様、悲観論を吹聴しとるというではないか」と、鼻先に軍刀をつきつけられたこともあった。日本兵には明かせない。けれど、なるべく多くの者と、ともに生きたかった。

―――一人では、わが身一人だけでは助かろうとは思いませんでした。
 
曾根氏は朝鮮人軍夫に呼びかけた。

―――私の判断では、朝鮮の軍夫は戦陣訓叩き込まれたわけではない。皇国思想も持っていない。徴用にかけられて来たのばかりだから、軍に忠誠誓うとか、天皇陛下の御(おん)ために生命を捨てるというような者はいない。軍夫でも皆、人の父であり、息子であり、夫であるんだから、一人でも多くと思ったが、それはできんかった。あまりに危険じゃから。これがバレたら当然銃殺。敵前逃亡なら、捕らえられたその場で殺されます。そのことを充分覚悟しとかなきゃいかん。
 
曾根氏は日本の敗戦が遠いものではないことを予感してはいたが、六月二十三日の沖縄守備軍第三二軍の崩壊は知らなかった。第三戦隊では二十二日、無線機で本島の軍司令部から発せられた「最後の斬込みを敢行す」の電報を傍受していたのだが、その報は幹部で握りつぶされ、下級兵士には伝達されなかったのである。

大城、知念両氏は、曾根一等兵は軍夫と綿密な連絡をとった上で行動に移っただろう、とみていた。しかし、実際はそうではなかった。

―――前に打合せしとったら。危険、兵隊の中にもちょっとでも敗ける言うたら反感持って、反発してくるのがいるんですから。何日も前から計画を明かしたらいつばれるか分らん。発覚したら終り。どうすべきか思案しまして、思い悩んでこの方法しかないと……。

その日、曾根氏は阿波連の現地自活班から二三四高地の部隊本部へ食糧を運搬する任務についていた。大城氏のいうように、自ら願い出て危険の多いその任務についたのではない。上官の命令に従ったまでのことだ。また、赤松氏のいうように、現地自活班に組み込まれていたのではなく、三中隊に所属しており、寝起きする壕も本部の南の三中隊にあった。

六月二十九日夜、曾根氏は芋や芋の葉の入った袋を背にした軍夫らを率いて阿波連を発った。一キロほど行くと、渡嘉志久(とかしく)の浜が見える峠にさしかかる。「決行は今夜だ」そう決意したのは、暗がりの中で鈍くたゆたう海を峠から見下ろした時だ。渡嘉志久の浜まで降りれば目と鼻の先に米軍がいるはずだ。だが、命令通り糧秣(りょうまつ)を本部まで運ばなければ怪しまれる。本部へ糧秣を届けてから陣地を出、あの浜に降りよう。夜目にもそれと分る小さな入江を見やりながら、曾根氏は想いを巡らせた。闇の中を手探りで山道を登り、本部に辿り着いたのは真夜中だった。

まず、軍夫長フクダに決行を打明けた。そして、軍夫たちへの呼びかけを依頼した。曾根氏は朝鮮語がまったく分らなかったし、軍夫も日本語が通じる者はごく少数だった。また、軍夫個々の気性も、どのような考えを持っているのかも、知らなかった。あまりつき合いのない曾根氏が直接呼びかけたのでは軍夫はかえって警戒する。時間もなかった。まごまごしていて日本兵に察知されれば生命はあるまい。そこで手っ取り早くフクダに軍夫たちへの呼びかけを依頼したのだ。フクダとは肝胆相照らす間柄というわけではなかったが、以前からつき合いはあった。そして、その日、同じ糧秣運搬の任務を負い、曾根氏の指揮下にあった。フクダは朝鮮人であったが、日本語が堪能だったため軍夫長に選ばれていたのだ。

フクダが自分の配下十数名を連れて来るまで三十分もあったかどうか。その中に女が混っていた。いつの頃であったか、慰安所の親方(カネコ)が第三戦隊に泣きついてきて、女たちともども部隊本部に潜り込んでいたから、慰安所の女であろう、と曾根氏は思った。(中略)どのように調達してきたのか、女たちは軍夫用の軍服、軍帽を身につけていた。

―――慰安婦は私が待っておったところに来て、軍夫長が「一緒に連れて行ってくれ」いいよりました。私はいかん、とも、連れて行くともいわんけど……。それで、軍夫長が一緒について来い、いうてね。

女が二名だったのか、三名だったのか、記憶はない。そのうちの一人であるフクマルとかいう女(キクマルのこと)が軍夫長と交渉があったのだろうと思った。

一行は糧秣を本部まで運んで来た空袋を背にし、再び阿波連(あはれん)まで糧秣運搬に行く途中であるように装った。

―――軍夫を連れたり女なんか連れたりして行きよるところを、二中隊、一中隊の前を通って調べられたりしたら危険。しかし他は心配はない。私も軍夫については責任を持っておったんで、武装しておりましたから。手榴弾と十二発実弾をつめておるのを持って行きよりましたから……。

(中略)軍夫長と軍夫だけでは歩哨線は通過できないが、日本兵である曾根氏が引率していたため、歩哨は何の疑念も抱かなかった。一行は難なく監視哨を通過した。その後も追手は来なかった。本部ではまだ、曾根氏と軍夫らの逃亡には気づいてはいなかったのである。(中略)渡嘉志久の浜に着いた時、空は白み始めていた。

―――敵の真ん前に来てるんじゃから、前へ行って撃たれたらいかん。なんとか降服するという印、白旗揚げにゃいかん。「誰ぞ白いきれ持ってないか」いうたら女の人が、慰安婦が持っとったんじゃろ思う。それを棒の先くくって、そして、海岸で振って。そしたら敵の前じゃにね、軍艦から見たんでしょ。上陸用舟艇で、すーっとやって来た。渡嘉志久の海岸の前側で止まって、こっちは下から降服の意志を表示した。「武器出せ」言うて、銃もとりあげられて、何もかも調べられて、向こうも危険はないとみたんでしょ。「これに乗れ」言うて。米軍が上陸用舟艇つけてくれた時は、まあ、ほっとしました。これで助かった、と。

曾根氏が率いた一行、軍夫長と軍夫約二十名、それに慰安所にいた女は、米軍の上陸用舟艇に無事乗船した。

続き:渡嘉敷島での軍夫の逃亡事件と第三戦隊による処刑(下)

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渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度

[沖縄集団自決]秦郁彦は研究者として失格
産経「正論」でおなじみの藤岡信勝と中村粲の両氏が“単なるウソつき”だということは周知のことなんで今さら何を主張しようが驚くことはことはないんですが、近現代史の研究者として自覚のない秦郁彦氏の劣化ぶりには目を覆いたくなりますね。


12/18 教科書検定審見解 軍命断定せずに評価も 沖縄集団自決 - 産経
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/110294/
http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news/news_071218.htm
■軍関与の例適切?
軍関与の主な例として「手榴弾の配布」「壕の追い出し」を挙げたことへの批判もある。現代史家の秦郁彦氏は当初の検定意見を堅持したことを評価しつつも、「集団自決の際に使われた主な武器はナタやカマなどだ。手榴弾は攻撃用の武器であり、自決に流用された例は少ない」と指摘。

兵器不足にもかかわらず軍が住民に「いざとなったらこれで自決しなさい」と手榴弾を渡していたわけですが、その手榴弾に不発弾が多かったために死にきれなかった住民が結果的にナタやカマを使ったわけです。それが秦郁彦氏の手法にかかると「手榴弾が使われた例が少ないから軍の関与も不適切」になっちゃうらしい。なんだそれ?


さらに「軍がいる場所が主戦場で危険だったため、『心を鬼にして追い出した』という軍側の証言もある」と善意の追い出しがあった事例にも留意すべきだとする。

沖縄戦では第三二軍の「軍官民共生共死の一体化」という方針のもと住民にも死を強い、沖縄の人も物も「一木一草」にいたるまでことごとく「戦力化」した(住民の投降も許さなかった)という前提があるわけですが、秦郁彦氏はそういった住民の生命や安全をまったく考慮しなかった日本軍の方針を一切無視して、将兵個人の行動を理由に軍の関与を「良い関与」だとすり替えようという意図がミエミエです。

以下、補足として林博史教授の著書沖縄戦と民衆から「軍紀の崩壊が意味するもの」という章を引用しておきます。

軍紀の崩壊と構造変化

P325. P327~329 軍紀の崩壊が意味するもの

軍紀の崩壊という現象には二つの側面がある。一つは、将兵たちの規律が崩壊し、略奪や強姦、さまざまな犯罪や横暴がはびこることである。もう一つは、上官への犯行や命令拒否、集団脱走、反戦活動など軍の秩序を崩壊する行為あるいは軍の秩序そのものへの攻撃がおこなわれるような状況である。前者の場合は、市民的良心が麻痺ないしは失われた将兵による犯罪であるのに対して、後者の場合は、侵略戦争や、無謀なあるいは正当化できない戦争・戦闘をおこなっている軍隊への抵抗・反抗であり、しばしば市民的良心にもとづく行動である。

(中略)

軍紀の崩壊による現象としてあらわれてくる第ニの側面に注目したい。このことは言い換えると、日本軍や戦時体制、日本が遂行している戦争に批判的な意識あるいは疑問を持っている人々が、その考えを具体的な行動にあらわすことができるということを意味している。

戦争に批判的な日本兵がいたとして、彼が仲間にこんな戦争で死ぬのは馬鹿らしいから脱走しよう、あるいは米軍に投降しようとか、住民に対して自決せずに投降するように勧めたりするようなことは、日本軍の軍紀が維持され、その組織が機能しているときには、とてもできることではない。軍紀とは、軍や体制に対する批判を許さないことを意味している。軍の組織が解体していくことによって、あるいは軍紀が崩壊していくことによって、はじめて軍や軍のイデオロギー(捕虜になるのは恥だ、というような)を批判し、自分の考えを行動に移すことができるようになる。

さきに紹介した宮本正男さんや渡辺憲央さんのように、当初から脱走ないし投降を考えていた兵士の場合を見ても、それを行動に移すためには慎重に状況を判断していた。軍の組織が機能している場合には、彼らのような行動は阻止され、軍法会議にかけられたり、ときにはその場で処刑されたりすることも覚悟しなければならなかった。したがって脱走や、住民を保護するような行動は、日本軍の組織が解体し、軍紀が解体していくなかで、あるいは軍から離れてしまったときに、初めて可能になったのである。したがって、そうした日本兵の行動を理由にして日本軍自体を正当化することはまったく誤りである。

沖縄住民の意識と行動を考えるにあたっても同様のことが言える。日本軍が組織的に機能しているところでは、住民が集団で投降することはできなかった。だから住民の集団投降がみられたのは、日本軍がいなかった地域・ガマ(日本軍の主陣地外で早くから米軍支配下に入った地域など)や、沖縄戦末期に日本軍が解体し、しかも投降を阻むような日本兵がいなかった所であった。

沖縄に配備された日本軍について言えば、飛行場建設部隊やその他の後方関係の部隊を中心に、現役兵ではない相対的に年齢の高い召集兵がたくさん含まれていた。軍の視点から見て、思想的に問題のある者も含まれることになる。また現地沖縄で防衛隊員をはじめ多数の住民を召集した。こうしてろくに軍事訓練も受けたことのない即成の兵士が急増した。そうした軍隊では現役兵中心の軍紀はとうてい維持できない。学徒隊員のように皇民化教育や軍の宣伝が浸透していた人々を除くと、防衛隊員たちがなぜ脱走を躊躇したかを説明するときにあげられる理由で多くを占めるのは、家族までもが死刑にされると脅されていたことだった。このことに示されているように、彼らを軍にしばりつけておくには、脅ししかなかった、だがその脅しも、日本軍を打ち破る、より強い米軍の前には効き目がなくなっていった。

しかも言論情報の統制にもかかわらず、一連の日本軍の敗北、とくにサイパンの陥落以降、日本が負けつつあるという認識は広がりつつあった。米軍の空襲に対して何も反撃できない状況を間近に見せつけられたことも、それに拍車をかけただろう。負けるとわかっている戦争で死ぬのはばかばかしい、という意識か生まれてくるのは当然だった。また本土兵から差別や虐待をうけることによって、彼らといっしょには死ねないと思うようになるのは無理もなかった。
 
防衛隊員たちが次々に脱走し、住民のなかからも集団投降する人々が生まれ、本土兵のなかからも投降する兵士が出てくる。そうした事態は、沖縄戦が日本の敗北が目に見えてきつつある状況のなかでの戦闘であり、軍紀が解体しつつある状況のなかでの戦闘であったことのあらわれである。そうした状況下で、日本軍はそれを阻止すべく、よりいっそう過敏かつ強圧的になり、そうした人々をスパイ視し処刑することによって引き締めようとして、ますますエキセントリックになっていったのである。

(ここまで)


<<沖縄戦・集団自決「軍命令否定派」が直視できない事実>>

12/18「軍命あった」 沖縄戦専門家の林教授が講演 - JanJan
http://www.news.janjan.jp/column/0712/0712170413/1.php
渡嘉敷島では3月20日、日本軍の兵器軍曹から村の兵事主任を通して役場職員や17歳以下の青年を集めて、手榴弾を1人2個ずつ配り、「いざという場合にはこれで自決せよ」と命令している。

慶留間島では2月8日、野田第2戦隊長が島に来て、約100人の住民を集めて「敵上陸のあかつきには全員玉砕あるのみ」と訓示している。

[沖縄戦] 防衛隊員は軍に二等兵として召集された正規軍の一員でしょ
沖縄戦での防衛隊について興味を持ちました。沖縄戦をただ祖国のために沖縄県民がすすんで命を捧げたドラマとして描こうとする人達からは、防衛隊の姿はあるべからざるものとして切り捨てられてきました。最近も歴史修正グループの代表格である藤岡信勝(ふじおか のぶかつ)、中村粲(なかむら あきら)の両センセーが集団自決に軍の関与・強制があったという事実を誤魔化すために「防衛隊員は軍とは関係ない」と珍論を展開し、切り捨てることに躍起になっています。(以下、改行と強調は引用者)


沖縄集団自決・教科書から「軍命令」削除 検定撤回狙うNHK報道 
中村粲/昭和史研究所代表
軍命令存在の“証言”として再三流すのは「日本軍から手榴弾を渡されて自決を強いられた」との言葉である。だが、この中の「日本軍」というキーワードに重大なごまかしがある。住民に手榴弾を渡して自決を勧めたのは地元出身の防衛隊員で、戦隊所属の日本軍将兵ではない。防衛隊とは兵役法による正規兵ではなく、現地在郷軍人会が結成した義勇兵で、軍装も不統一、階級章も付けていない。軍とは別に、家族と共に起居していた。
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=464


林博史氏は教科書検定審議会の意見聴取の対象として適格か
藤岡信勝
慶良間諸島には当時、陸軍海上挺進隊という正規の部隊が駐留していたほかに、防衛隊という名の、地元住民からなる義勇兵が存在したからだ。帝国在郷軍人会沖縄支部は市町村の集落単位で住民男性を集め中隊を編成した。法令的な根拠はなく、中国戦線などから帰還した戦場経験者がリーダーシップをとった。村長、助役などの村の顔役が隊長を兼ねて行政と一体化していた。しかし、陸軍の正規部隊の構成員ではないから軍服・武器は支給されず、日常生活は家族と起居をともにしていた。軍と協力し、軍を補助する仕事をしていた防衛隊員は、武器をほしがり、みずから戦闘集団たらんとした
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=2820&forum=1&viewmode=flat&order=ASC&start=400

この二人のウソ言い分をまとめると、

「防衛隊は地元住民が自主的に結成した義勇隊で日本軍じゃないよ。日常生活も軍とは別に家族と共に起居していたんだよ。だから集団自決は防衛隊と住民が勝手にしたことで、日本軍は関係ないよ。」

こんな感じでしょうか。確かに県史には、


一九四四年(昭和一九)七月一〇日ころ在郷軍人会沖縄支部は市町村単位の防衛隊を編成したが、これはいわゆる義勇隊であって法令上の根拠はない(義勇兵役法が成立するのは翌年六月)」と『沖縄県史別巻―沖縄近代史辞典』(四九四頁)にはあるが、読谷山では表立ったそのような組織や動きはなかった。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu093.htm

とありますが、読谷村でも組織や動きがなかったことからわかるように、この時期には本格的な防衛召集はまだ実施されていません。沖縄での本格的な防衛召集はこの後から実施されます。


[本格的な防衛召集の実施]
一九四四年一〇月に(陸軍防衛召集)規則が改正されて、徴兵検査をうける前の一七・一八歳の男子も召集可能となり、一〇月から一二月にかけて一七歳から四五歳までの男子を召集の実施したのが第二の時期である。(中略)なおこのときに防衛召集された青年の一部は、遊撃隊に配属され、遊撃戦の訓練をうけている。第三の防衛召集は、一九四五年の二~三月の時期であり、とくに三月六日付だけで約一万四千人(本島のみ)が召集されており、防衛召集の多くがこの時期に集中している。(中略)
[捨て石にされた防衛隊員]
防衛召集されながら、「防衛召集」という言葉すら知らない者も多かった。召集令状も普通の赤紙ではなく、青紙であったので、すぐに家に帰れるだろう、という程度の認識の者さえいた。だが彼らは陸軍二等兵に任命され、その望みもすぐに消えた。
藤原彰「沖縄戦――国土が戦場になったとき」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20071125/1200676580

そして在郷軍人会による義勇隊は防衛召集による防衛隊に編入されていったそうです。


防衛召集が、在郷軍人会防衛隊を構成している成年男子を根こそぎ召集したことを考えると在郷軍人会防衛隊は、防衛召集による防衛隊にとってかわられていったのではないかと推定される。
[林 博史HP] 沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦 
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper04.htm

このようにほとんどの防衛隊員は一九四四年一〇月に陸軍防衛召集規則が改正されてから青紙で召集され陸軍二等兵として各部隊に配属されています。当然、家族と共に起居することなど許されていません。一七歳未満の男子学徒からなる防衛隊員(鉄血勤皇隊など)も陸軍二等兵として軍に召集されています。


[一般の鉄血勤皇隊]
県立一中では昭和二十年三月二十九日、「事実上の入隊式があった。別に式という程のものではなかったが、二等兵の階級章と軍服が隊員に支給されたのである。真新しい軍服、軍帽軍靴、ゲートルに肌着等全部支給された。上級生も下級生もなく、みんな二等兵である。子供みたいな兵隊ができあがったが、馴れるにそれほど時間を要しなかった。
(中略)
防衛隊員であっても軍人であり、いかなる状況にあっても所属部隊を離れてはならないし、特に戦場においては戦列からの離脱は考えられない。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu097.htm

なお、一七歳未満の鉄血勤皇隊の召集には法令上の根拠がないので一応「志願」というかたちで召集され各部隊に配属されたそうですが、ここらへんの法令上の規定がどうなっているのかまでは、まだ勉強不足で詳しくはわかりません。知ってる方がいましたらコメ欄か(こちら)に情報を寄せてもらえると助かります。


[強制された学徒隊参加](※ここでいう学徒隊とは鉄血勤皇隊のこと)
学徒隊への参加は、法的根拠がないため、生徒の志願というかたちがとられ、保護者の承認がいることが建前とされていた。だが、学校が勝手に印鑑をつくって書類を作成したこともあり、事実上強制参加と同じであった。
藤原彰「沖縄戦――国土が戦場になったとき」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20071125/1200676580


召集令状による集合者の中には不適格者の病人や身体不自由者も含まれており、部隊側は兵事主任にさらに補充を求め、十六歳以上五十歳まで適用年齢を拡大して令状を発行した例もあったという。
一般の防衛隊が兵事主任を通し、聯隊区司令官名で召集されたのに対し、学徒隊は学校ごとに軍に徴され、鉄血勤皇隊を結成して従軍した純然たる防衛隊(員)であった。大田昌秀はその著『鉄血勤皇隊』の中で、第三十二軍の駒場少佐による軍司令官命伝達を次のように記している。
「沖縄師範学校職員生徒は第三十二軍司令官の命により、本日より全員鉄血勤皇隊として軍に徴された。今や敵の沖縄上陸は必至である。諸君は全力を挙げて…(後略)」(一二頁)。
これを見ても鉄血勤皇隊とはいえ、軍に徴されたからには軍司令官直接命令による防衛召集にほかならない。ということは兵事主任とは別ルートの防衛召集であり、それは鉄血勤皇隊を編成し従軍した他の中等学校も同じである。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu094.htm


<歴史修正主義グループも防衛隊が正規軍の一員であると認める>


『沖縄戦集団自決事件をめぐる 「反日神話」の背景(2)』
椿原泰夫/自由主義史観研究会会員
沖縄戦では、「国家総動員法」の趣旨に基づき、十四歳以上四十五歳までの健康な男子は「防衛隊員」として召集されていた。軍による動員であり、「正規軍」の一員としての扱いであった
http://www.jiyuu-shikan.org/rekishi106.html


曽野綾子「ある神話の背景」 233頁
しかし調べてみると、沖縄の場合の防衛隊員というのは、れっきとした兵であった。
「第三十二軍においては、航空基地の急速設定時の特設警備工兵隊の編成、遊撃隊の編成などに防衛召集を実施したが、二十年二月中旬情勢が急迫を告げた際、相当数の防衡召集を実施し、更に三月上旬約十五日間を目途として大々的に防衛召集が実施された。この際学徒の一部も動員された」(国頭支隊命令綴)
召集されたのだから、正規兵であった
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/356083


<防衛隊について参考になるサイトやブログ>

「鉄血勤皇隊」などの資格について [Apes! Not Monkeys! はてな別館]

沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦 [林 博史HP]

第一章 太平洋戦争と沖縄戦 [読谷村史]

沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(2) [愛・蔵太の少し調べて書く日記]


<お知らせ>

沖縄戦について質問や議論ができる掲示板ができました。みなさん分からないことなどありましたら気軽に参加してみてください。誰も参加しないと自分とni0615さんのチャット化してしまいそうです(^^;
http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?mode=tree

[集団自決訴訟][2ch]大江叩きの名無しさん自爆する

【集団自決訴訟】 大江健三郎さん 「集団自決は日本軍の強制。命令書があるないのレベルではない」「確信強まった。訂正は不要」★10
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1194786308/

727 :名無しさん@八周年:2007/11/12(月) 03:38:46 ID:Ed2SIKO20
あくまでも小説として、しかし、できるだけ歴史を検証しながら
作品を書いた司馬遼太郎の誠実さと比べると、
大江健三郎のあまりのペテン師・破廉恥に驚くばかりである。

774 :名無しさん@八周年:2007/11/12(月) 04:07:26 ID:0fYbQGdC0
>>727
だなぁ。
司馬氏は一つの作品書くの資料をトラック一杯分とか普通に当たるからね。



大江健三郎氏が「沖縄ノート」を執筆するにあたり参考にしたといわれている「鉄の暴風」について、司馬遼太郎氏はこう述べています。

大田昌秀「死者たちは、いまだ眠れず」新泉社、2006年、73頁より引用

「鉄の暴風」のなかにも、軍隊が住民に対して凄惨な加害者であったことが、事実を冷静に提示する態度で書かれている。もし米軍が沖縄に来ず、関東地方に来ても、同様か、人口が稠密だけにそれ以上の凄惨な事態が起こったに違いない。住民をスパイ扱いにしたり、村落に小部隊が立てこもって、そのために住民ごと全滅したり、それをいやがって逃げる住民を通敵者として殺したりするような事態が、無数に起こったのではないか。
(司馬遼太郎「沖縄 先島への道 街道を行く6」朝日新聞社、1998年)

私は自らの体験に照らし合わして、このような発言は軍隊の本質、または戦場の偽りのない実態をよく知っている人でなければ口に出せないと思わざるを得ません。


(改行は引用者)

【追記】※「鉄の暴風」では軍命と二人の隊長の実名を明記しています。1950年に初版が発行され今も版を重ねて発行されています。


ここからは、この訴訟について書きますが、驚いたのは「沖縄ノート」には実名が書かれていないんですね。弁護士じゃないので詳しいことはわかりませんが、そもそも名誉毀損が成り立つのか疑問だったりします。

ちなみに、原告で元座間味島守備隊長の梅沢裕氏(90)は、「沖縄ノート」を読まずに提訴し、読んだのは「(提訴後の)去年」だと証言しています。原告で元渡嘉敷島守備隊長(故人)の弟、赤松秀一氏(74)は、兄に(軍命)事実の確認をしたことはないと証言しています。


<集団自決訴訟問題や教科書検定問題を考察するうえで、ぜひ読んでおきたいエントリーをいくつか貼っておきます。>

沖縄戦裁判:訴訟の根拠を原告自ら否定する「安禅不必須山水」

大江健三郎を擁護する。女々しい日本帝国軍人の「名誉回復裁判」で…。 文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ 「毒蛇山荘日記」

つくる会恐るべし、教科書検定審議会委員にもいた!「なごなぐ雑記」

沖縄戦における「集団自決」と「住民虐殺」の事例一覧「15年戦争資料 @wiki」


[教科書検定問題]専門家がいないのに学術的観点?
■文科省のいう「専門的、学術的観点」どころか、専門家がいませんでした。
ありえねー(笑

沖縄戦集団自決「軍の強制」削除
文科省が検証なしに20年来の記述覆す
検定意見こそ政治介入(2007/10/12 赤旗)


赤嶺議員:「審議会や小委員会や部会のなかに、沖縄戦の専門家はいたのか。

金森局長:「沖縄戦を専門に研究している方はいなかった。が、審議会におきましては、専門的、学術的な調査審議が行われたと承知しております。」

赤嶺議員:「大臣、いなかったんですよね。沖縄戦の専門家はいなかったけれども、局長は学術的、専門的審議が行われた、こういう認識を持っていると言うんですよ。おかしいんじゃないですか。

赤嶺氏は日本史小委員会のメンバーが沖縄の地元紙のインタビューに、「沖縄戦の専門家がいない。(文科省の)調査官のほうがよく調べており、(審議会の)委員より知っている。説明を聞いて納得してしまう部分がある。沖縄戦の専門家がいれば結果はだいぶ違っただろう」と答えていることも紹介。

【追記】

このエントリーは(こちらのソース)をもとに後から若干の修正をしました。文科省は今まで「検定意見は専門家が決めた。」と言い、安倍モト首相も「これは(文科省の)審議会が学術的観点から検討している。」と言っていましたが、こういったことがデタラメであるということが、国会の公式な記録として残されたいうことは大きな意味があると思います。


■強制自決から軍の関与を削除する発端となった検定意見書の「原案」に、教科書調査官の四人の印鑑と、起案者の印があり、そして係長、専門官、企画官、課長、それから総合調整課長、そして審議官、局長の合計七人の印鑑が押されていることが判明。

「強制」削除 文科省ぐるみ
沖縄戦「集団自決」 の検定意見
専門的検討なし(2007/10/12 赤旗)

文科省の金森越哉初等中等教育局長は「(同意見書は)検定意見の原案」と述べ、発端であることを認めました。

【追記】

文科省の教科書調査官、計16人のうち4人が日本史を担当しているんですが、その中に中立性や正確性を逸脱した「つくる会」関係者がいたこともわすれてはいけませんね。(こちら)


みのもんた激高「沖縄の強制自決は否定できない事実だ!」

「集団自決」軍強制 文科次官、調査官関与を否定
文科次官、審議会に沖縄戦の専門家を入れることについても明言を避けた。

「集団自決」教科書検定審議に文科省調査官が介入していた



まえから集団自決の「自決」という、自分の意志で死んだと誤解される表現に違和感があったので、みのさんの「強制自決」イイと思います。
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渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度(2)
渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度の続編です。

1970年3月に渡嘉敷島の慰霊祭に赤松元戦隊長と元隊員が25年ぶりに参列しようとしたことがきっかけになって、赤松元戦隊長への糾弾と激しい渡島阻止行動が行なわれたことから、沖縄戦の記憶を呼び起こし大きな議論になった。

この事件とほとんど同時期に、那覇に滞在していた元海軍大尉・島尾敏雄が書いた「那覇に感ず」という文がある。約200名の海上挺進隊を指揮した赤松嘉次元戦隊長と同じ琉球列島の加計呂麻島で、約180名の海上特攻隊の指揮官だった元海軍大尉・島尾敏雄は戦時中の環境があまりにも似すぎているため、地元の新聞が報じた記事を目にしたとき、

「思わず身の凍りつく思いに襲われた」「ある理解が体を電撃のように通過したのは、沖縄の離れ島で起こった住民の集団自決の事実のことだ」

として、自分が彼と同じ状況に陥った時どんな事態が生まれるだろうか、と考え暗澹たる気持ちに襲われ、慄然としたことを告白している。そして、

彼とのかかわりあいでのなかで非戦闘員が三百人余りも自決したその場所にでかけて行こうとするのだろう。ふとそこに死にに行くのではないか、と先走って不吉な考えを私は起こしてしまった。

という。だが、島尾敏雄の「不吉な考え」は思い違いに終る。

でもいったい彼は本当になんの告発を受けることもなく、渡嘉敷島に渡れて、慰霊祭に参列できると考えていたのだろうか、本心からそう思っていたのだろうか。私はどんなふうにも理解することができずに、深く暗い裂け目に落ち込んでしまった。しかしなんとしてもへんてこな羞恥で体がほてり、自分への黒い嫌悪でぐじゃぐじゃになってくるのをどうにもできなかった。何かが醜くてやりきれない。彼の立場だったら、私にどんなことができるかと思うとよけい絶望的になるし、しかしまたこの状況は醜い、と思うことからものがれられなかったのだ。」と結ぶ。

(「世界」2007年7月号 P101.102)



この事件の翌年に赤松元戦隊長は月刊誌「青い海」に「私達を信じてほしい」というタイトルで寄稿しています。「集団自決の真相」とうたわれた手記にしては、凄惨を極めた集団自決とスパイ容疑での住民虐殺、そして朝鮮人軍夫や慰安婦のことは書かれていないそうです。この書かなかったというより書けなかった部分にこそ本当の真相があるのでは?と、思うのはオレだけか?


前回のエントリーで紹介した「裁かれた沖縄戦」のP68~71をテキスト化してもう1つのブログにアップしました。
■[沖縄戦][集団自決]「裁かれた沖縄戦」安仁屋政昭
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20071012



いつもクリックありがとうございます。
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渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度
■「裁かれた沖縄戦」安仁屋政昭(晩聲社・1989年)から該当箇所を抜き出してみました。本書は*第三次教科書訴訟で家永氏が取り上げた沖縄戦に関連する裁判記録が収められたものです。

*第三次教科書訴訟
1988年2月9日・10日に那覇地方裁判所で行なわれた原告・家永側(安仁屋政昭氏、金城重明氏など)の証人調べに対して、被告・国側(曽野綾子氏など)の証人調べは同年4月5日と5月13日に東京地裁にて行なわれた。


P118 曽野綾子証人調書より
曽野綾子「赤松さんは、村の人のことというのは、正直言って、あまり頭になかったとおっしゃっていました。こちらは戦闘部隊なのであって、特攻舟艇の出撃はだめになったのだけれども、いずれは死ぬけですから、だれかが村の人のことはやるだろうということ、それから、集団自決に関しては、本当にみんなよくわからなくて、赤松さんは、ふとんがずぶぬれになって、女の子の髪が泥の中に見えましたと、そして、自決した場所というのはどこでしょうか、どこでしょうねと、しきりに言っておられました。」


手榴弾が使われた集団自決に関して、よくわからなかったというのはありえないと思うんですがねぇ。


P297.298 金城重明証人調書より 
ーーー曽野さんが赤松隊長に取材して、赤松隊長は「恩納河原で三百何十人が自決を遂げて、累々と血が河原を染めていた、そういう状況は見てない。」ということを言ってますが、一体真実はどうなんですか。

金城重明「見てないとか見たとかについては、私は赤松さんと一緒にいたわけじゃありませんからわかりませんけれども、ただいえることは島は一部しか緑は残っていないんです。全部焼き払われて。日本軍は直接知ってますけれども、どの時点から一個中隊くらい上陸した、と。米軍がどこで何をしてるということを、全部日本軍は双眼鏡におさめているわけです。一挙手一投足、全部わかるんです。しかし、陣地のすぐ近くで300名以上の人がものすごいうめき声を挙げながら手榴弾を爆破させながら死んで行ったということを、全く知りませんでしたということは不思議でしょうがない。米軍ですら『恐ろしいうめき声。これは何かある。』と言って、その日の夕方からそこを調べに行こうとしたという状況の中で、日本軍が全く知らなかったということは、私は不思議でしょうがない。そいう思いが致します。」



当時、ニューヨーク・タイムズは、「渡嘉敷島の集団自決」という見出しで次のように報じている。


P344.345.346 集団自決の惨事より 
(NYタイムズ 1945年3月29日付け、ウオーレン・モスコウ記者の報告)
三月二十九日、昨夜、われわれ第七七師団の隊員は、慶良間最大の島、渡嘉敷の厳しい山道を島の北端まで登りつめ、一晩そこで野営することにした。その時、一マイル程離れた山地からおそろしいどよめきの声、悲鳴、うめき声が聞こえてきた。手榴弾が六発から八発爆発した。「一体何だろう」と偵察に出ようとすると、闇の中から狙い撃ちされた。仲間の兵士が射殺され、一人は傷を負った。われわれは朝まで待つことにした。その間人間とは思えない声と手榴弾が続いた。ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると「オーマイガッド」何ということだろう。そこは死者と死を急ぐもの達の修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供達の泣き声だけであった。

そこには200人ほど、(註・G2リポートには250人とある)の人がいた。そのうちおよそ150人が死亡、死亡者の中には六人の日本兵がいた。死体は三つの小川の上に束になって転がっていた。われわれは死体を踏んで歩かざるを得ないほどだった。およそ40人は手榴弾で死んだのであろう。周囲には、不発弾が散乱し、胸に手榴弾を抱えて死んでいる者もいた。(中略)

小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。まったく狂気の沙汰だ。軍医は助かる見込みのない者にモルヒネを与え、痛みを和らげてやった。全部で70人の生存者がいて、みんな負傷していた。その中に、二人の日本兵負傷者がいた。担架班が負傷者を海岸の救護施設まで移動させる途中、日本兵が洞窟から機関銃で撃ってきた。師団の歩兵がその日本兵を追い払い、救護が続いた。

生き残った人々は、アメリカ兵から食糧を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げ「鬼畜米英の手にかかるよりも自ら死を選べ」とする日本の思想が間違っていてことに今気がついたのであろう。それと同時に自殺行為を指揮した指揮者への怒りが生まれた。そして70人の生存者のうち、数人が一緒に食事をしている所に、日本兵が割り込んできた時、彼らはその日本兵に向って激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵を保護してやらねばならぬほどだった。なんとも哀れだったのは、自分の子供を殺し、自らは生き残った父母である。彼らは後悔の念から泣き崩れた。(以下略)
(上原正稔訳編「沖縄アメリカ軍戦時記録」20.21頁)




うわぁ……、日本軍は負傷者を救護しないばかりか、救護していたアメリカ兵を機関銃で撃ってますね。住民を守るという姿勢はまったくなかったようです。
そして、アメリカ軍の救護施設で住民が日本兵に対しこれほど激しく怒ったということからも、みずからの意思でなく日本軍から死を強制され「集団自決」に追い込まれていたということが見えてきます。

ここでいう「強制」とは、なにも赤松元戦隊長が直接「軍命」を出したか出していないかという一部分の問題ではなく、例えば、それまで陣地構築と漁労班に従事していた16歳~45歳までの男子は防衛隊に編制され、女子青年団は炊事班などに配属され、漁船も軍の指揮下に置かれ渡航も許可制になり、村役場なども軍の施設となり、秘密基地ということことで住民は日本軍の厳しい統制下におかれていたこと。

こうした「軍官民共生共死」の一体化体制のもと、渡嘉敷島では住民に米軍への恐怖を植え付け、「軍事機密漏洩防止」のため、住民の敵への降伏を許さない方針をとり、住民虐殺も行なわれていること。住民に事前に「これで死になさい」と手榴弾が配られていること。こうした降伏しないで死を選ぶよう軍が関与し強制していたということです。


■次に、「死者たちは、いまだ眠れず」大田昌秀(新泉社・2006年)から赤松元戦隊長について書かれた箇所を抜き出してみます。

P68.69.70より
赤松元戦隊長は、1968年4月「琉球新報」の記者の質問に答え、住民は軍の任務を知らないから、「集団自決」を軍命によるものと考えたのだろう、と言い、自分は「絶対に命令したのではない」とこう反論しました。

「(集団)自決のあったあと報告を受けた。しかし、防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。当時の住民感情から、死んで部隊の足手まといにならぬようにという気持ちだったと思う……。軍の壕といってもお粗末なもので住民が入れるような所ではなかった。同じようなケースの自決は沖縄にはいくらでもあったはずだが、なぜ渡嘉敷島だけ問題にするのか、私にはよくわからない。日本が勝っておれば、自決した人達も靖国に祀られたはずだ。」(琉球新報 1968年4月8日付)

また、スパイ容疑で殺された人たちについて彼は、「私が処刑したのは、大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。私の知らないものもあるが、当時の状況からやむをえなかった」と一部は認めています。

彼自身が住民から悪評をかっていることについては、特攻隊のような花々しい戦闘を住民は期待したのだろうが第三挺進戦隊にはそれができなかったこと、それに(渡嘉敷島が)小さい共同体のことだから当時の隊長であった彼を悪人に仕立てた方が都合がよかったからではないか、とも述べています。

なお戦後の心境については「私のとった措置は、万全のものではないだろうが、あの時点では正しかったと思う。なにしろ戦闘なのだから、現在の感覚と尺度では、はかりようがない。週刊誌に若気のいたりとか不徳のいたすところなどと私が言ったとあるが、あれはいわば社交辞令だ」と言うとともに、「防衛庁の記録にも私の処置が正しかったことが書かれている」と開きなおる態度も見せたようです。

これに対し、戦争当時渡嘉敷島の村長をしていた米田惟好(よねだいこう)旧姓・古波倉は「……反省しているだろうと思い、いまさら彼一人を責めるのはよそうと思っていたのに、このシラを切った態度は、常識では考えられない。これでは自決を強いられて亡くなった人達の霊も浮かぶまい」と批判しています。
(山川「秘録 沖縄戦史」読売新聞社・1969年)
(琉球新報 1968年4月8日付)




<渡嘉敷島の集団自決関連ニュース>

■全員自決の訓示否定せず
大阪地裁 沖縄戦「集団自決」裁判 元軍人ら証言
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-28/2007072815_02_0.html
(2007/07/28 赤旗 一部抜粋)
皆本氏は原告代理人の主尋問にたいし、赤松戦隊長とは親しく、戦隊と島の住民とも良好な関係にあり、「集団自決」についても、切迫した戦況のもとで「軍命令など出す余裕はなかった」と全面否定しました。

しかし被告代理人の反対尋問では「『集団自決』の隊長命令は聞いてない」としながら、「米軍との戦闘が中心で赤松戦隊長とは別行動だった」と戦隊長の動向を知る立場になかったことを証言。太平洋戦争開戦を記念する「大詔奉載日」の儀式で「米軍が上陸したときには、全員が自決する」との訓示があったのではないかとの質問に「赤松戦隊長あるいは代理が参加し、(訓示は)あったと思う」と否定しませんでした。


<沖縄戦集団自決について参考になるサイトやブログ>

■沖縄戦で集団自決を巡る議論について
http://www.geocities.jp/forever_omegatribe/okinawa.html

■愛・蔵太の少し調べて書く日記
[沖縄戦]沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070622/aniya05
「裁かれた沖縄戦」安仁屋政昭編のP23~52までを5回シリーズでテキスト化してくれてます。

■15年戦争資料 @wiki 集団自決などをめぐって
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/62.html
目次:「ある神話の背景」論争
太田良博氏の曽野批判:1985年4月8日から10回連載
曽野綾子氏の反論1985年5月1日~6日
太田良博氏の曽野氏への再反論1985年5月11~17日

■[沖縄関係] 林 博史教授の論文
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/12paper.htm#%89%AB%93%EA


このエントリーは書きかけです。なんだかうまくまとまらなくなってきたので、別エントリーをあげようかと考えています。あと、「拍手」を付けてみました。クリックしてもらえると管理人が喜びます。)

続きです。渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度(2)

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[集団自決]教科書検定でどう書き換えられたか
前回のエントリー[沖縄戦集団自決]誤りだらけの産経【主張】で、「検定は、軍の関与や体験者の証言を否定するものではない。」というのはウソであると指摘したんですが、実際にどう書き換えられたか詳しく見てみましょう。
てか、ほとんど私的なメモです(^^;

※来年度から使用される高校日本史の教科書で検定意見を受けたのは、清水書院、三省堂、東京書籍、山川出版社、実教出版の5社が発行する7種類の教科書。(実教出版は日本史Bの教科書を2種類発行)

▽ 清水書院 日本史B

【検定前】なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた。

【検定後】なかには集団自決に追い込まれた人々もいた。

検定後には「日本軍」という主体と「強制」が削除され、住民が自発的に命を絶ったように読める。

▽三省堂 日本史A及びB

【検定前】日本軍に「集団自決」を強いられたり……

【検定後】追いつめられて「集団自決」した人や……

検定後には「日本軍」という主体と「強いられ」が削除され、住民が自発的に命を絶ったように読める。

▽東京書籍 日本史A

【検定前】日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で「自決」を強いられたものもあった。

【検定後】「集団自決」に追い込まれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した住民もあった。

検定前の後半では誰によって「強いられたのか」は明確でないが、前半に「日本軍」が行為主体として出てくるので、当然、日本軍が強いたと推論できる文になっている。検定後は、順序を変えることで日本軍との関係が切れ、住民が自発的に命を絶ったように読める。

▽山川出版社 日本史A

【検定前】日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった。

【検定後】日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた


検定前の記述では、「日本軍によって」が後の「集団自決に追い込まれた」までかかるので、日本軍が追い込んだことがわかる。検定後は、一文中の前半と後半が並列されているので、日本軍との関係が切れ、住民が自発的に命を絶ったように読める。

▽実教出版 日本史B

【検定前】日本軍により、県民が戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、幼児を殺されたり、スパイ容疑などの理由で殺されたりする事件が多発した。

【検定後】……県民が日本軍の戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、日本軍により幼児を殺されたり、スパイ容疑などの理由で殺されたりする事件が多発した。

かなり微妙な表現だが、検定後は「日本軍により」が削除され、誰に「追いやられた」のかわかりづらくなっている。

▽実教出版 日本史B

【検定前】日本軍は、県民を壕から追い出し、スパイ容疑で殺害し、日本軍の配った手榴弾で集団自害と殺し合いをさせ……

【検定後】……日本軍の配った手榴弾で集団自害と殺し合いがおこった。

検定前の記述では、日本軍が「集団自害と殺し合い」を強要したことになっているが、検定後は軍による強要の要素は削除され、「日本軍の配った手榴弾で」住民が自発的に命を絶ったように読める。


<参考>
正論2007年9月号 P93.94。 世界2007年7月号 P93.94。
2007/04/01 赤旗 沖縄戦の記述の修正内容


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[沖縄戦集団自決]誤りだらけの産経【主張】
産経にとって虚偽、歪曲、偏向、捏造報道は麻薬みたいなもので、ヤメられないようです。

10/03産経 【主張】教科書検定 政治介入排し事実正確に
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/opinion/87957/

高校教科書の沖縄戦集団自決に関する記述に付けられた検定の撤回を求める動きが続いている。教科書検定は政治的な動きに左右されてはならない。正確な歴史の記述を求めたい。

同意です。中立性や正確性を逸脱した教科書を作っている「つくる会」関係者が文科省の教科書調査官という立場を利用し検定に関わり、教科書から日本軍の「関与」「強制」を削除させたうえで同省の内部決裁を経ていたということは、文科省が口出しできる仕組みそのものであり、安倍内閣が政治的に介入したことは明らかです。ですから、自分も元の正確な歴史の記述に戻すことを求めます。

教科書検定への批判には、大きな誤解や論点のすり替えがある。

論点を2人の隊長による「軍命」の有無にすり替えているのは産経です。

今回の検定前の教科書には「日本軍のくばった手榴弾(しゅりゅうだん)で集団自害と殺しあいをさせ」など、軍の命令で強制されたとする誤った記述があった。

手榴弾を配った日本兵に、これで「自決しなさい」「死になさい」と命じられたとする多くの住民の証言や、米軍が上陸直後にまとめた資料に、日本兵が住民に自決を命令したことを示す記述があり、誤った記述ではありません。間違ってるのは産経です。

検定意見は近年の研究や証言に基づき軍命令説の誤りを指摘したものだ。前述の記述は検定の結果、教科書会社側が「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺し合いがおこった」との表現に修正した。

その記述では「日本軍のくばった手榴弾で住民が勝手に集団自決を行なった」と読めるので事実と違います。

検定は、軍の関与や体験者の証言を否定するものではない。

ウソはやめてください。
日本軍という主体まで削除された教科書があります。
(こちら)

集団自決は、米軍が沖縄本島西の渡嘉敷島、座間味島などに上陸したときに起き、渡嘉敷島では300人以上が亡くなった。その後の地上戦で12万人を超える沖縄県民が戦死した。この悲劇は決して忘れてはならない。軍命令説は、昭和25年発刊の沖縄タイムス社の『鉄の暴風』に記され、作家の大江健三郎氏の『沖縄ノート』などに孫引きされた。だが作家の曽野綾子氏が渡嘉敷島で取材した『ある神話の背景』をはじめ、調査や証言で軍命令説は信憑(しんぴょう)性を失っている。渡嘉敷、座間味での集団自決は両島の守備隊長の命令だったとされてきた。しかし遺族年金受給のために「軍命令だった」と関係者が偽っていたことなどが明らかになった。大江氏の『沖縄ノート』に対して元守備隊長や遺族らが誤った記述で名誉を傷つけられたとして訴訟も起きている。渡海紀三朗文部科学相は教科書会社から訂正申請があれば書き換えに応じる可能性を示した。検定意見の撤回を求め沖縄県で開かれた大規模集会などを受けたものだ。しかし、訂正申請は誤記・誤植や統計資料の更新など客観的事実の変更に限られるべきだ。検定の方針が変わることはあってはならない。民主党が検定の撤回や見直しを求めていることは教科書への政治介入である。教科書には実証に基づいた正確な記述が必要だ。政治的思惑で歴史事実を書き換えることは許されない。

これは前回のエントリーで書いた、軍の関与や強制を「軍命令説」にすり替え騙す手法「藁人形を叩く」というやつですね。


産経は読者をミスリードするために、ほとんど同じ内容の文章を定期的に掲載するので、次回からはこのエントリーを少し書き換えたものをiza!にTBしようと思います。


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