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日本軍による斬首写真は「時代の真実切り取った宝物」
と、産経新聞が報じてますが、さすがに斬首刑の写真を「宝物」とまで書くのはどうかと思いました。

2007/7/7 時代の真実を切り取った“宝物” 菅野力夫 幻の写真 - 産経新聞
http://tankenka.j-wak.com/media.html

菅野力夫PHOTOの写真の中には「馬賊の最期」というキャプションの昭和8年9月~昭和9年5月に撮影されたものがあります。場所は不明(満州、支那、蒙古)。
こちらの写真:http://blog-imgs-26.fc2.com/d/j/1/dj19/20080608190920.jpg

年表

大正3年(1914)  青島攻略、第一次世界大戦
大正7年(1918)  シベリア出兵
昭和2年(1927)  山東出兵
昭和6年(1931)  満州事変
昭和7年(1932)  上海事変
昭和12年(1937) 日中戦争(支那事変、日華事変)

菅野力夫BLOGには当時を知ることの出来る貴重な写真がたくさんあります。ちなみに、自分が気に入った写真は旅人の木

【関連リンク】

国立国会図書館 データベース
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000038455
>菅野力夫(すがのりきお)は、「郡山市喜久田出身の冒険家。孫文の中国革命の頃革命を支持し援助していた頭山満によって工作員の1人として蒙古へ送られて裏面工作にあたった。のちアフリカ、南アメリカ、チベットなど世界の秘境を闊歩した。」といわれています。

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太平洋戦争 日本軍と石油(2)
太平洋戦争開戦秘話「覆面石油部隊」については、1つ前のエントリ「太平洋戦争 日本軍と石油」で動画を見てもらうとして

これだけでは日本軍が輸送船の保護をどれくらい軽く見ていたのかよくわからないですよね。そこで少し補足しておこうと思う。

お粗末な日本の護衛体制 

「日本の生命線」であるはずの南方航路の護衛専門部隊ができたのは、なんと日米開戦から4ヶ月も経ってからのことであった。しかも、そのお粗末ぶりときたら……

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『海上護衛戦 (学研M文庫)』の著者でもある当時、海上護衛総司令部の作戦参謀であった元海軍大佐・大井篤(あつし)さんは次のように語っている。

「連合艦隊がまったく非協力的なんだ。軍司令部の計算では、南方航路を守るには最低水雷戦隊が三隊は必要と考えたのだが、連合艦隊に交渉してみると、まだまだ作戦地域を広げて侵攻作戦を計画していて、あくまで作戦優先。護衛なんかてんで頭にない。一隻の駆逐艦も出さないというんだ。

 しかたないので、鎮守府とか警備府などから老朽のいわば『お婆さん』の旧式駆逐艦や水雷艇をかき集めてようやく作ったというのが実情。しかもその数たるや、シンガポールから門司(もんじ)までの約2500海里(約3700キロ)のシーレーンを守る第一海上護衛隊が、旧式駆逐艦10、水雷艇2、商船を改造した特設砲艦5だけ。横須賀からラバウルまでの2000海里(約3700キロ)を守る第二海上護衛隊が旧式駆逐艦4、水雷艇1、特設砲艦1だけ。守るべき輸送船は3000隻以上もあるんですよ。こんなわずかな船でいったい何ができるというんです。情けないというほかない。」(『太平洋戦争 日本の敗因〈1〉日米開戦 勝算なし (角川文庫)』p85~86より)

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海軍に輸送船の護衛専門機関が誕生するのは、さらに遅れること1年半以上、昭和18年11月15日のことになる。遅すぎるってーの!

一方、アメリカはというと昭和17年には「コンボイ」と呼ばれる護衛艦隊に守られた大船団で航行している。この大船団は平均70~80隻、多いときは200隻に及び、潜水艦や航空機からの攻撃に備えていたのだった……。

参考までに昭和16年6月に海軍軍令部が作成した「現情勢下ニ於(おい)テ帝国海軍ノ執(と)ルベキ態度」の中で、どれくらいの船舶被害を見積もっていたのかを最後に紹介しておく。

戦争第1年 80万~100万トン
戦争第2年 60万~80万トン
戦争第3年 70万トン      (前書p41より)

↓これが実際の船舶損害。(アメリカ戦略爆撃調査団報告書による)

戦争第1年 96万トン
戦争第2年 169万トン
戦争第3年 392万トン     (前書p42より)


太平洋戦争 日本軍と石油
覆面石油部隊 ~太平洋戦争開戦秘話~ 1
http://jp.youtube.com/watch?v=A445Wmc8ZPA
覆面石油部隊 ~太平洋戦争開戦秘話~ 2
http://jp.youtube.com/watch?v=wuGdH55yDaE
覆面石油部隊 ~太平洋戦争開戦秘話~ 3
http://jp.youtube.com/watch?v=wZUypqykCNo
覆面石油部隊 ~太平洋戦争開戦秘話~ 4
http://jp.youtube.com/watch?v=Y9zENaQVzvk
覆面石油部隊 ~太平洋戦争開戦秘話~ 5 (終)
http://jp.youtube.com/watch?v=0nF8Tad6DXw

■「覆面石油部隊 ~太平洋戦争開戦秘話~」がyoutubeにあったので見てみたんだけど当時のことを証言してるいる人達が以前に紹介した「太平洋戦争 日本の敗因〈1〉日米開戦 勝算なし (角川文庫)」に出てくる人と一部かぶっていたので理解するうえでとても助かった。自分の知らなかった証言もあったので一部を書き起こし、補足と私見 を入れてみた。


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覆面石油部隊 ~太平洋戦争開戦秘話~ 3より
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ピクチャ 2

元陸軍省燃料課員・高橋健夫さん

陸海軍企画院による石油会議に出席した元陸軍省燃料課員・高橋健夫さんは南方からの環送(かんそう=輸送のこと)油の量が算定した数値より水増しされていくのを目の当たりにした。

高橋さん 「なんとかやれそうだという表を作ること自体が目的だったような気がする。」

■普通なら日米開戦前に想定していた内容は現実的な情報に基づいたものではなく「誤りだった」と認めるはずの企画院会議で、戦争を指導していた上層部が机上の空論によって作り上げた方針へと、どんどん水増しされていった。このような情報的認識の甘さは日米開戦後もまったく改善されることはなく繰り返され、結果、末端の兵士や民間人の多くの犠牲を生むことになった。




ピクチャ 1

元パレンバン落下傘部隊長・徳永悦太郎さん

■製油会社は、こういうふうになっているんだと部下に渡した地図はこれだけ。
ピクチャ 2
徳永さん 「(相手の)兵力がなんぼあるのか、そんなことは、いっこうにわからん。」

リポーター 「・・・(絶句)」
ピクチャ 3

■日本軍は東南アジアの石油生産地帯を占領、生産を始めたが、日本の戦争指導者達は油田を占領することと石油を手に入れることは別問題であることを見過ごしていた。パレンバンの石油は、はるか2500海里(約4600キロ)かなたの日本まで持ち帰らないかぎり日本の戦力にはならないのだった……。




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覆面石油部隊 ~太平洋戦争開戦秘話~ 5 (終)より
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2011y04m04d_074425214.jpg

雷跡!!右30度―特攻船団戦記」の著者でもある元タンカー船長・宇野公一さん

宇野さん 「大砲みたいなものを載っけておけば潜水艦が浮上した時に、あれ、大きな大砲もってると、あまり近寄ってこないと、で、私の沈んだ船の後ろにも長さが2間ぐらいの砲身のすばらしい大砲ですよ(笑)木でできてる(苦笑)。そのへんの電信柱でも持ってきて、でん、と横に並べておけばいいわけですから。」

リポーター 「実際に攻撃をうけたことは?」

宇野さん 「一番最初に木の大砲が燃えだしちゃったんですよね。大砲の格好してボンボン燃えてるわけですよ。これバレたなあと(苦笑)」

■当時は電信柱に大砲と同じ色を塗って据え付けたものを「偽砲」とか「木造砲」とよんでいたそうです。




2011y04m04d_075003793.jpg

元陸軍第3船舶司令部(シンガポール)・天谷 広さん

天谷さん 「ドラム缶に石油を入れてエンジンも何も無いいかだにそれを載っけて海流にのかっていけば、どこか九州の南端か四国沖にでも着くだろうと、そいうことも1つのアイデアとして考えました。」

■↓タンカーが1隻も来なくなった南方から石油を日本に向けて運ぶために考え出されたのがこれ。
小型船がロープで引いているのは石油の入った生ゴムの袋だそうです。

2011y04m04d_074648791.jpg

天谷さん 「こりゃあ『極秘の兵器』ちゅうんですよ。」

リポーター 「えっ!?(絶句)」

天谷さん 「これも1つの兵器なんです。」


【追記】
このエントリだけだと日本軍が輸送船の保護をどれくらい軽く見ていたのかよくわからないと思ったんで続きを書いてみました。

続き:太平洋戦争 日本軍と石油(2)
[歴史][戦争]日本軍の悪習 初年兵に対する私役やビンタ
みなさん(←みなさんって誰だ?)こんにちは。こちらをアップしました。
[歴史][戦争]日本軍の悪習 初年兵に対する私役やビンタ

呉空襲の被害状況と連合艦隊の最期の姿
1945年(昭和20)3月19日から軍都であった広島県の呉は軍港とその周辺の海軍工場、市街地が米軍により何度も空襲にあいました。戦後、爆撃の効果と威力を調査するため米国戦略爆撃調査団が1946年の3月から4月にかけて撮影したカラーフィルムがあるんですが、その動画をみつけたので紹介します。

こちらのサイトでMPEGファイルをダウンロードすれば解説付きの動画を見れます。
http://kure-sensai.homeip.net/Video/index.htm
>「米国戦略爆撃調査団 呉空襲の被害状況」(解説付き)(30分、280MB)

このカラーフィルムはアメリカ国立公文書館に保管されていたものを1980年代になってから「1フィート運動呉市民の会」を結成し市民各層の協力をえながら買い戻したものだそうです。

動画の内容を簡単にメモしてみました。
00:00~
B29により爆撃された工場、倉庫跡や不発弾、壁に残った艦載機(グラマンF6など)による機銃掃射跡など。
07:52~
ドッグに111隻、集められた*1特殊潜航艇「蛟龍」(こうりゅう)。
08:46~
武装解除された空母などによる復員風景、B29に爆撃された工場跡など。
13:27~
昭和20年3月19日、最初の呉空襲の呉軍港内の主力艦隊の係留図(戦艦「大和」もいます)。
15:20~
ここからは以下のニコニコ動画(ただし、こちらは解説無しのサイレントフィルム)の映像と同じになります。


動画の内容は、
2:48~
船腹に大きな穴があき破損したまま傾いている重巡「青葉」
3:30~ 
艦首がもぎとられ擱座(かくざ)浸水し、主砲が海水で洗われている戦艦「日向」
8:59~ 
大破浸水し、主砲が空しく天空に向けられている戦艦「伊勢」
10:42~ 
飛行甲板が破壊され転覆している空母「天城」
12:00~ 
擱座浸水している戦艦「榛名」
(以上)

補給を無視しズルズルと戦線を拡大していった日本軍は昭和17年6月のミッドウェー海戦、ついで昭和17年8月にはじまったガダルカナル島の戦いと、以降ことごとく敗戦を重ねていくことになります。制空権も制海権も完全に失い東南アジアからの石油を断たれた海軍は航空機の護衛もないまま呉軍港内に係留されていた戦艦「大和」で「悠久(ゆうきゅう)の大義を守る」という美名のもと沖縄への特攻作戦を敢行しますがたどりつけるはずもなく昭和20年4月7日、九州南方の海上で11本の魚雷と無数の爆弾を浴びて「大和」は沈没します。

残されていた連合艦隊の艦艇も重油がなく身動きできないため呉軍港周辺に水上砲台として利用されますが昭和20年7月24日アメリカ軍機動部隊の艦載機870機、28日には950機により次々に破壊されます。このとき破壊された連合艦隊の最期の姿が上記で紹介した動画の映像になります。


▼呉の空襲については上で紹介したサイトのトップページのリンクを貼っておきます。
呉戦災を記録する会

リンクをたどっていくと「1フィート運動呉市民の会」についてや、このフィルムを使用して作られた映画「赤い月の街ー呉空襲ー」のこと、呉海軍刑務所に収容されていた捕虜のこと、他にも米軍の資料や日本側の資料、空襲体験記などかなり多くの情報が載せてあります。


*1特殊潜航艇「蛟龍」(「蛟竜」とも書くようです)についてはこちらのサイトで詳しく説明されています。
特殊潜航艇「甲標的」「蛟龍」「海龍」ハワイ真珠湾特別攻撃 [鳥飼行博研究室]

「蛟龍」は表向きは最小型の通常動力型潜水艦となっていますが、戦争末期には攻撃用の魚雷が整備されず、隊員の募集が「特攻隊員」として行われ部隊も水中特攻部隊と称していたこと、隊員が体当たり自爆すると認識していたことの3点から人間魚雷として使用するものとして準備されていたそうです。


<参考文献>
p236~238
太平洋戦争 日本の敗因〈1〉日米開戦 勝算なし (角川文庫)

こちらのNHK取材班による「太平洋戦争 日本の敗因シリーズ」〈1〉~〈6〉は平成4年~5年にかけて放送された6本のNスペを出版化したものなんですが、最近、歴史に興味を持った人にはオススメ本です。なお「太平洋戦争 日本の敗因〈4〉責任なき戦場 インパール (角川文庫)」の放送分はこちら→【ニコニコ動画】ドキュメンタリー太平洋戦争で見ることができます。


ミンダナオ島でつづられた元日本兵の日記
<上>魂の記録 終戦日を前に ミンダナオ島でつづられた日記
(2007年8月10日 東京新聞 キャッシュ)

(群馬県)安中市磯部の旧家から今春、太平洋戦争の末期にフィリピン南部のミンダナオ島で密林をさまよった旧日本兵、故・大手守さんの日記が見つかった。無残な遺体の数々、生死を分けた銃弾、そして極限の飢えに“人肉”を求める戦友…。奇跡的に生還した兵士が密林でつづった日記は極めて珍しい。十五日に丸六十二年となる終戦の日を前に、壮絶な「魂の記録」から平和と命の尊さを再考したい。(菅原洋)

■死者 口や鼻にハエが黒山のように…

手のひらサイズのメモ帳。表紙と中の紙に、薄茶色の染みが点々と付く。汗か、雨水か、それとも血なのか。

日記は日本軍がいた同島西端のサンボアンガに、米軍が上陸した一九四五(昭和二十)年春に始まる。敗れた日本軍はグループに分かれ、散り散りとなって逃げた。

三月三十一日 落後者しきりなり。かわいそうだが、何もしてやれず。彼らは誰一人みとられず命の灯を消すのだ。

四月二十七日 落後者には口や鼻にハエが黒山のようにたかる。この姿のようには絶対ならない、と歯を食いしばって一歩一歩歩む。

五月十七日 遺体の傍らを通り過ぎる時は最初は黙とうしていたが、感覚がまひしてきた。

■飢餓  タニシやカエルネコまでも食べ

木の実、タニシ、カエル、ネコ、イヌまでも食べる日々。飢えが戦友同士を切り裂いていく。

五月七日 誰もが真っ先に自分のことを考える。戦友とは、親友とは何だろう。いざとなれば、食うか食われるかの仲になるだろう。

六月二日 鈴木君と口論する。イモなどを全部渡して決別した。食い物のために昨日の友も今日の敵か。

ついに、飢えは人間の精神を狂わせ始める。

六月十二日 アジア系の外国人を一人拾った。ある戦友(日記では実名)が「この男を殺して食おう」。私は反対する。そのうちに水を飲んでいるサルを見つけ、木の枝で生け捕りにした。外国人を助け、サルと人間の命を交換した。

■生死  荷物に弾痕あり一瞬全身が凍る

突然銃撃が襲い、何度も生死の境に直面した。

六月二十八日 背中の荷物を取ると、荷物に弾痕があった。伏せた時に当たったのだろう。頭を上げていたら、直撃していた。冷水を浴びせられたように、一瞬全身が凍る。食べ物ものどを通らない。

死の瀬戸際から、ようやく希望が見えた。終戦から一カ月以上を経て、日本の敗戦を知る。

九月二十七日 思えば長く、苦しい放浪だった。心の中で期待はしていたが、それが今実現しようとしているのだ。夜は取って置きの米を赤飯にした。感無量なり。

大手さんはレイテ島の収容所を経て、その年の年末ごろに帰国した。


(以上)

<下>魂の記録 終戦日を前に 生きて帰れさえすれば 壮絶な体験 家族に語らず
(2007年8月10日 東京新聞 キャッシュ)


このような貴重な資料を公表してくださった遺族の方には感謝したいと思います。そして、旧日本軍の敗残兵によるカニバリズム(人肉食)事件がなぜ起きたのか興味をもちました。
(追記)
で、さっそく「ゆきゆきて、神軍」のDVDを注文し、図書館で「棄てられた日本兵の人肉食事件 著 永尾俊彦」を借りてきました。後で内容をアップしようと思います。




太平洋戦線の島嶼等で日本軍は各地で食糧補給が途絶したため、戦死した兵士の死体や落伍した兵士を密かに殺すなどしてその肉を奪い合って食べる事態が頻発し、軍上層部でも問題となった。これに対し、1944年12月にニューギニア戦線の日本軍第十八軍は「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」とし、これに反した4名が処刑されたが、この布告は餓死寸前の末端兵士たちにはむしろ生存手段としての人肉食を示唆することになった(敵軍将兵の死体は食べても罰するという記述は無く、フィリピンのミンダナオ島では非戦闘員を含む住民が日本兵に殺害され、食べられるという事件が起こっている。)前述のように、主に日本軍による人肉食が発生した戦場はインパール・ニューギニア・フィリピン・ガダルカナルなどである。日本軍による連合軍兵士に対する人肉食は、多くが飢餓による緊急避難であったことや、人肉食に遭った兵士の遺族に対する感情などを考慮した結果、その多くは戦犯として裁かれることはなかった。奥崎謙三は部下の肉を食べた上官の戦争責任を追及すべく活動しており、その様子は映画「ゆきゆきて、神軍」に収められている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0


ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」
周囲4キロを米軍に包囲されるという極限状況のジャングルで、1万数千人の日本軍の間では、飢えと疲労から人肉食がおこなわれていた。関係者はポツリポツリとあるいは平然と、その事実を打ち明ける。2人の日本兵は、その事実を隠蔽するために殺されたらしい。関西のある食堂のおやじは白人を白ブタ、原住民を黒ブタと称していたことを話し始める。
「じゃあ、ブタというのはすべて人肉のことだったんですね」
「土人のブタを取ったら、土人から殺されるからね」
「でも白ブタも黒ブタも捕まえられないこともあったでしょう。そういう時は部隊の下の方から殺して順番に食べていったんじゃないですか」
「いや、私のいた部隊では日本兵は食べなかった」
http://homepage3.nifty.com/cinema1987/moviecritic/review12.html


手塚治虫のお父さんはフィリピンの奥地に行って、空腹の毎日を暮らしていたが、本当に何もなくなると誰かがちゃんと「野豚」を捕まえてきて食べさせてくれたという。お父さんは何かを見てしまった、そしてそれを隠しているような怯えをみせたという。それが「ゆきゆきて、神軍」を観て何だか答が分かったというのです。
http://www.toyama-cmt.ac.jp/%7Ekanagawa/cinema/singun.html


辺見庸「もの食う人々」
「ミンダナオ島の食の悲劇」と題する節は、私はもっとも迫力を覚え、胃袋のどこかに不消化な異物をいつまでも感覚するような、そういう読後感をもった。74歳の老農民サレの案内でミンダナオの山中深くに入っていく。敗戦後2年間にわたって残留抵抗した日本兵らの小屋のあった場所までいく。案内のサレ老人は残留日本兵の掃討作戦に参加したことがあるのである。日本兵はフィリピン現地人をとらえて食べていた。マニラの公文書館に戦争犯罪記録(49年、英文)が、日本軍揚陸隊兵士十数人の証言を伝えている。
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/ugo/oe/kibo2.htm


産経「正論」も認める
戦後、マニラ東方山地にこもった振武集団の参謀長だった少将が、集団で人肉を食べた兵たちを銃殺刑にした事実を暴露した。
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2005/0509/photogallery2.html


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