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BC級戦犯の「3分の1は明らかな冤罪だった」という怪情報
前回のエントリで取り上げた産経論説委員・石川水穂こと、みずぽたんの記事に「BC級戦犯の3分の1は明らかな冤罪だった」という怪情報があったので気になってApemanさんに聞いてみたところサンケイの名物記者あびるんも仲良く吹聴してるんですね。

2006/7/2阿比留瑠比ブログ 中国はBC級戦犯カードを温存している
自身も身に覚えのないことで巣鴨拘置所で10年もの歳月を過ごしたFさんは、拘置所内で約800人の入所者の体験談を集めていました。Fさんによると、「処刑された人の3分の1は明らかに冤罪だ」ということです

2008/1/26 石川水穂 無差別爆撃の非道さを問う
通常の戦争犯罪や「人道に対する罪」を裁いたBC級戦犯裁判は[中略]身に覚えのない捕虜虐待の責任を押しつけられたり、現地住民のあやふやな証言だけで起訴されたりするケースが多く、3分の1は明らかな冤罪(えんざい)だったといわれる

どうやら時系列的にみてこの怪情報の出所は、BC級戦犯裁判での被告(旧受刑者)自身が拘置所内で聞き取りしてまわった、という話らしいです。

そこで、本当に「3分の1は明らかな冤罪だった」のか真偽を確かめるために現在、研究者のあいだでBC級裁判はどのような研究状況にあるのかBC級戦犯裁判 (岩波新書) - 林 博史を参考に検証してみることにしました。

まず、日本ではBC級戦犯として5700人が起訴(法務省資料)され934人が死刑判決を受けているんですが、実際に裁判では被告のほとんどが不当性を主張しているようです。それに比べ弁護にあたった日本人弁護士の評価は批判も多いですがかなり違っています。「日本が国際法を無視し、人命を軽視していたことを反省する必要がある」と何人も述べていたり、「ある程度は公平であった」という評価もあります。日本が戦中におこなった*1軍律裁判は一種の戦犯裁判と言えますが、そこでは弁護人を認めませんでした。もし日本が勝って戦争裁判をおこなっていたとすればどうなっていただろうかと自問する弁護人もいたそうです。
孤島の土となるとも―BC級戦犯裁判 岩川 隆

ちなみに、みずぽたんが記事の中で紹介している映画「明日への遺言」の中で描かれている東海軍管区司令官・岡田資(たすく)中将は、法廷で米軍の無差別爆撃を国際法違反として批判し、搭乗員処刑の責任を1人で背負った将軍として高く評価されていますが、B29の搭乗員を軍律会議にかけることなく斬首により処刑したことで裁かれています。また、岡田資中将は歩兵旅団長時代の1938年、中国で毒ガス戦を実行し、その効果を高く評価する報告をおこなっています。
毒ガス戦と日本軍 - 吉見義明

また、BC級裁判では中国での虐殺事件や秘密部隊である731部隊など多くが裁かれていないということも確認しておく必要があるようです。敗戦時、海外にいた日本軍だけでも約350万人もいたことを考えれば裁かれた戦争犯罪はごく一部でしかなく、戦後に戦犯追及を恐れた日本軍から機密書類の焼却命令が出され、各地で証拠隠滅、事実隠蔽、報告書の改竄などがおこなわれていたため追訴できるまでの証拠を固めるのは困難な場合が多かったようです。(※ドイツでは戦後に合わせて10万件以上のナチ戦犯容疑をみずから捜査し、6000件以上の有罪判決をみずから下しています。)

横浜裁判(BC級裁判)について、横浜弁護士会が行った貴重な研究。
横浜弁護士会BC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会、『法廷の星条旗 BC級戦犯横浜裁判の記録』、日本評論社
>錦州爆撃・南京渡洋爆撃・重慶爆撃…と、日本軍こそが戦略爆撃のパイオニアで
>あり、しかも事実上無差別爆撃を意味する命令が南京渡洋爆撃ではすでに出てい
>た。他方、爆撃の規模・発生した民間人への被害という点で米軍側の爆撃が日本
>軍のそれをはるかにうわまわることも自明である。弁護側がその点を激しく指摘
>したケースもあった。ただし、その差は日本軍の装備が劣っていたことによるの
>であって、日本側の良心によるものではない。日本軍にB29のような爆撃機と
>大量の爆弾があれば、東京大空襲に匹敵する重慶大空襲を行なった可能性は非常
>に高い。

>法律家が記録をみた印象としてはとても「3分の1が明らかな冤罪」であるような
>裁判ではなかったようです。ただ、時期や法廷の場所によって審理の質にばらつき
>があるということはあります(死刑の比率一つとってもかなり違います)が。
>その他、左右を問わずまともな研究者による研究成果にそのような数字が出てきた
>のを見た記憶はありません。(by Apemanさん)

以上ここまで、他の資料とつき合わせながらBC級裁判を研究状況をみてみましたが、「3分の1は明らかに冤罪だった」と断定できるほど包括的かつ詳細な調査はまだおこなわれていないというのが現状のようですから、けっきょく都合のいい被告側の証言や弁明は無条件に信じ、都合の悪い被害者や法廷での証言を「あやふや」だと決め付け否定してかかる産経・論説委員の自国の戦争犯罪を誤魔化したい正当化したいという責任逃れ体質が改めて露呈する形となっただけでした。みなさんも産経の報道は鵜呑みにせず可能な限り複眼的な情報収集を心がけましょう。それにしても自国の戦争犯罪にこれほど無責任な人間が米国の無差別爆撃の非道さを問うというダブスタぶりは滑稽で仕方がありませんな。

*1軍律会議(軍律法廷)とは、軍が軍律という法律を制定して敵国民や占領地住民の「戦時重罪」を裁くための軍事裁判で、日本軍の軍人軍属を裁く軍法会議とはまったく別のものである。戦犯裁判で扱われたのは、軍律会議で死刑判決が出され、それを軍司令官承認したうえで搭乗員を処刑したケースと、軍司令官などの判断で軍律会議にかけることなく処刑したケースの2つがあり、前者でも軍律に従って処刑(通常は銃殺)した場合と、軍律に従わずに斬首・刺殺などの方法で処刑した場合がある。(法廷の星条旗―BC級戦犯横浜裁判の記録

【関連リンク】
映画「明日への遺言」オフィシャルサイト


(このエントリは後から追記、訂正をしました。)

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サンフランシスコ講和会議にみる「アジア解放の戦争」という怪
サンフランシスコ講和会議の際に日本より被害を受けたと述べた国はたくさんありましたが、日本のおかげで独立したという国は一国もありませんでした。

【サンフランシスコ講和会議でのアジア諸国の態度】

■1988(昭和63)年5月24日 第112回国会 参議院外務委員会 第10号議事録
政府委員(外務省条約局長):斉藤邦彦
参議院議員:吉岡吉典
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/112/1110/11205241110010c.html
(一部抜粋)
吉岡吉典:サンフランシスコ講和会議(
*1)でアジア諸国が、幾つもの国が日本の侵略を厳しく糾弾する演説をやっている問題なんですね。私、事前にこれに関連して質問するということも通告しておきましたので、どういう国が日本の過去の侵略について厳しい批判を行ったか、外務省の方から述べていただきたい。

政府委員:サンフランシスコ講和会議の際に日本より被害を受けたと述べた国は、ラオス、カンボジア、インドネシア、フィリピン、ベトナム、オランダといった諸国であると承知しております。

吉岡吉典:私が読んだところではまだ幾つかありますけれども、数はいいわけです。これらの国の演説というのは、私が読んだ本によれば、事前にダレス特使がいろいろ圧力をかけたり、買収工作をやって本会議でこういう演説が行われないようにさんざん工作した(
*2)にもかかわらず飛び出した発言で、当時の吉田首相は、ダレスの力も大したことないなと側近に語ったということまである本で書かれている。例えばインドネシアはこう言っていますね。「日本人による占領期間中にインドネシアが被った損害は二重であります。第一に、約四百万名の人命の損失があり第二には数十億ドルの物質的損害があります。」、こう言っています。四百万人が殺された。フィリピンの演説を読んでみますと、こう言っています。「千八百万の人口のうち、われわれは百万以上の生命を失いました。生命の損失の他にわが国民は未だに癒されない程深い精神的傷手を蒙りました。」後、続くわけですけれども、私は改めてこの議事緑を読んで、こういうことを日本国民にも知らせないできた。同時にサンフランシスコ平和会議の受諾演説で吉田首相はこういうアジア諸国の批判に答えてもいない。外務省どうですか。

政府委員:受諾演説の中にはそういうくだりはなかったと承知しております。

吉岡吉典:日本の戦争のおかげで独立したと感謝を述べた国が一つぐらいありましたか。

政府委員:そのような声明を行った国はなかったと承知しております。


(ここまで)


*1)サンフランシスコ講和会議
1951年9月4日からサンフランシスコ市の中心街にあるオペラハウス (War Memorial Opera House) において、全52カ国の代表が参加してサンフランシスコ講和会議が開催され、9月8日に49カ国が署名し閉幕した。

対日講和の手続きは、当初アメリカ、ソ連、イギリス、中国の4ヵ国合意のうえで進めることになっていたが、アメリカは日本を資本主義陣営として協力を得るため講和条約の締結をいそいだ。アメリカ、イギリスの作成した講和条約案にはインド、ソ連などが反対。ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの3ヵ国は会議に参加したが、「全面講和でなければならない」という考えから調印には加わらなかった。インド、ビルマは会議への参加を拒否した。中国、朝鮮、モンゴルは招待されていなかった。中国は1951年9月18日と翌1952年5月5日の2度にわたり、同条約の違法性を指摘し、条約を認めない考えを表明した。


*2)1951年2月、9月に開かれる講和会議を前にして、アメリカの大統領特使ダレスが、フィリピンとオーストラリアを訪問した。[略]フィリピンは賠償問題でダレスともめ、会談は物別れに終わったばかりか、反ダレスのデモがおこった。
[略][サンフランシスコ講和会議では]インドやビルマは、講和の内容が不満であるとして、会議そのものに欠席した。[略]
[略]結局、フィリピンと南ベトナムは賠償請求権を放棄せず、インドネシアでは条約が国内の反対にあって批准されなかった。
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060507




【外務省「サンフランシスコ会議議事録」にみる 各国代表の発言】
(総点検 日本の戦争はなんだったか 著 吉岡吉典 新日本出版)
P40~42

■パキスタン  チャンドリイ・モハメッド・ザフルラ・カーン外相(1951年9月6日)
「四年になんなんとする間に、日本の侵略の潮はアジア各国に放火と殺戮(さつりく)とを齎(もたら)したのであります。その潮がやっと堰(せ)き止められ遂(つい)に押し返されました。その跡に残りましたのは、荒廃した土地、打ちひしがれて、困苦、貧窮、屈辱に喘ぐ人々でありました。最も耐え難ったのは屈辱、人間の尊厳に対する暴行侮辱でありました。遂にその終末が参りました。そしてその幕切れはまったく突然でありました。日本の占領すなわち死の苦しみに対する熾烈(しれつ)な記憶は依然として消えずしばしば悪夢となって蘇ってくるのであります。それが生き残った者の状態であります。彼らは甘んじて許しも致しましょう。又努めて忘れようとさえ致しましょう。しかしあの無残な、苦難の下に生命を失った人々は何となりましょうか。この人々を忘れ、この人々に代って許すということは一層難しいと思われるのであります。」

■インドネシア  アーマド・スバルジョ外相(1951年9月7日)
「日本人による占領期間中にインドネシアが被った損害は二重であります。第一に、約四百万名の人命の損害があり第二には数十億ドルの物質的損害があります。私はここでその数字を述べることは差し控えましょう。何故ならそうすることはこの会議の主旨にそわないでありましょうから、しかし私の政府は、具体的事実と数字をつかんでおり、それらを適当な時期に適当な場所で提出するでありましょう。」

■フィリピン  カルロス・P・ロムロ外相(1951年9月7日)
「私は、ここで、日本の最も近い隣国の一つであり、不釣合いに重大な破壊を受け、日本のために損害を受けた国を代表して述べているのであります。千八百万の人口のうち、われわれは百万以上の生命を失いました。生命の損失の他に我が国民は未だに癒されない程深い精神的傷手を蒙(こうむ)りました。四年間に亘る野蛮な占領と侵略者に対する不断の抵抗の後、我が国民経済は完全に破滅し去ったのであります。フィリピンがその地域と人口に比して、アジアで最も大いなる惨禍(さんか)を受けた国であるということは意義を挟む余地のないところであります。」

■ベトナム  トラン・バン・ヒュー首相(1951年9月7日)
「ヴェトナムは、アジア全民族中物資的のみならず、その人民の生命においても最大の戦禍を蒙ったものであることは誰しも否めないところであるからであります。そして占領の悲劇的環境が悲惨な結果に陥し入らしめた幾多ヴェトナム人に対し私が今日敬虔(けいけん)な思いを致さなかったならば、私は我々の死者に対する追悼の義務に欠くることなるでありましょう。我が国の蒙った物質的損失もこれに劣らず甚大であり、且つ我が経済は、今もなお困苦の裡(うち)にあります。道路、橋梁(きょうりょう)は、断たれ、村々は、破壊され、病院、学校は、損失を蒙り、港湾、鉄道は、爆破された。すべては再建させなければならず、しかも不幸にも我々が現在可能以上の資源を必要としております。」

■ラオス  サヴァン首相(1951年9月6日)
「長い長期の戦争であり、そのぜい弱な資源を挙げて侵略者に抗戦したラオスはあ、その土壌、遺跡及びその建物に関して被害を蒙(こうむ)ったのみならず、その経済的及び道義的組織も、侵略者の課しうるすべてのものによって被害を受けたのであります。しかしながら、解放以来、ラオスはその痛手から回復し、その民主的制度はラオスをして最も進歩した国の中に列せしめたのであります。すなわち、戦争の犠牲者として、ラオスは今日自由にして且つ、民主的国家群の中にその地位を占めたのであります。」

■カンボジア  フレング外相(1951年9月6日)
「極東における穀物、魚類、木材、家畜、ゴムの主要生産地の1つであるがゆえのその極めて重要な経済的潜勢力とともに、その地理的戦略的地位のために、我が国もまた、真っ先に日本によって占領されたのであります。この事のために、我が国は、今次大戦によって最も大きな被害を受けたという悲しむべき栄誉を持つ国にその名をつらねているのであります。公的私的財産の受けた大きな被害、長期にわたる占領、日本派遣部隊に対する我が国経済の犠牲による扶持(ふち)、国土の三分の一の数年にわたるき損、これらは、要するに我が国の上にふりかかった禍(わざわい)であります。」




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歴史の闇に埋もれた陽高事件「東条英機の戦争責任」
歴史学者の秦郁彦氏は 「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル出兵、「陽高の集団虐殺」、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と推測している。

(秦郁彦 著書「現代史の争点」より)



「陽高事件」(陽高の集団虐殺)は、秦郁彦氏が1987年に雑誌上(諸君 1987年8月号)で東条英機の戦争責任について論じたのをきっかけに知られるようになった。

陽高事件とは、1937年(昭和12年)9月8日に山西省北部の町・陽高を占領した関東軍の察哈爾派遣兵団(兵団長は東条英機中将)が、占領当日から翌9日にかけて城内で「男狩り」を行い、非戦闘員を含む数百人を虐殺したとされる事件だ。

中国側の主張では500~600人が殺害され、12人が脱出に成功したとされている。国府も終戦後に戦犯訴追のための調査を行ったが、東京裁判やBC級戦犯裁判でも訴追されることなく、歴史の闇に埋もれてしまうこととなった。

東京裁判で陽高事件が訴追されなかったのは、秦氏が指摘するように、唯一と言って良い検察側証人だった田中隆吉が参謀として察哈爾派遣兵団に勤務していたことが大きい。

察哈爾作戦における東條英機兵団長(中央) (毎日新聞社,1937年)
toujyo1937.jpg

「日華事変と山東省」より
http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000130.html
※「陽高事件」について、詳しく知りたい方はリンク先参照ください




(簡単に知りたい方は以下)

秦郁彦氏他編「世界戦争犯罪事典」より
http://t-t-japan.com/bbs/kyview.cgi?k=a&dir=tohoho&pg=10&id=glgqrf&id2=glgqrf
「陽高事件」
日中戦争初期の一九三七年九月、内モンゴルの陽高で、関東軍のチャハル兵団(兵団長東条英機中将)がひきおこした中国人虐殺事件。

七月七日の盧溝橋事件をきっかけに日中間の戦火はしだいに拡大、八月中旬には華北ばかりではなく、華中の上海にも飛び火した。この間に中央・現地を通じ、もっとも強硬論を主張していたのは、極東ソ連軍を主敵としているはずの関東軍で、なかでも東条参謀長は対ソ戦準備の前にまず国民政府(南京政権)に一撃を加え、背後の脅威を除去すべきであるという思想の持ち主であった。

その関東軍は、華北の戦闘が始まると、八月一四日チャハル兵団を編成、東条はみずから兵団長に就任、二個族団をひきい内モンゴルのチャハル省へ進攻した。参謀長が部隊の指揮官を兼ねるのは陸軍の伝統に反する異例の事態だったが、関係者は「チャハル作戦も兼務も東条の発案」で「東条の戦争」以外の何物でもなかったと証言している。
 
作戦自体は追撃につぐ急進の連続で、八月二七日には張家口、九月一一日には大同を占領し、内モンゴルの全域を制圧した。

大同の東北にある陽高で虐殺事件が起きたのは九月九日である。本多族団が南城門から、篠原族団が北城門から城壁を乗り越えて城内へ突入したのは八日夜だが、守備兵の猛抵抗で約一四〇人の死傷者を出す。激高した日本軍は夜が明けて占領が終わると、城内の男という男を狩り出してしばりあげ、機関銃の集中砲火を浴びせて殺害した。

その数は三五〇人とも五〇〇人ともいわれるが、はっきりしない。また処刑を実施した部隊名も明確でないが、東条が首相時代の一九四三年二月、秘書官との雑談で当時を回顧して、「不穏な支那人等は全部首をはねた。一人しか捕虜は居なかった。斯くの如く日本の威力を知らせておいて・・・米とか何とかを施してやった。恩威並び行われたわけだ」と語っているので、東条兵団長の責任は免れないと思われる。

しかし、この事件は東京裁判でも中国のBC級法廷でも裁かれなかった。一説には、中国側は本多族団の歩兵第三連隊と野砲兵第四連隊を「犯人」と見当をつけ、訴追を要求したが、取りあげられなかった。

理由は不明だが、A級被告のトップにいた東条の履歴書に、出先かぎりの人事発令だったチャハル兵団長の職歴が記載されていなかったのも一因だろう。もし東条が実質的な責任者とわかれば、東京裁判の検事団はためらわずに陽高事件を訴追したと思われる。

東条を「平和に対する罪」に加え「虐殺の元凶」として裁く法廷効果は絶大だったからである。
(秦郁彦)

<参考文献>
信太山砲四会『野砲第四連隊並に関連諸部隊史』(一九八二)
秦郁彦「東條英機の<戦争責任>」(秦郁彦『現代史の争点』文藝春秋一九九八)




▼「憲兵政治」の象徴、東条英機による、報復・懲罰召集、懲罰転任など

◯戦備課の塚本清彦少佐は、東条へ戦局に関する直言を試みて激怒を買い、即日サイパンの守備参謀に追いやられ戦死した。

◯毎日新聞記者が「竹槍では勝てない。飛行機だ」という記事を書いたというので、その記者を招集して玉砕が予想された硫黄島に二等兵として送ろうとした。その記者は37歳という高齢で当時の戦局では大正時代の老兵は一人も招集されていなかった。

◯衆議院議員の中野正剛が朝日新聞に寄稿した「戦時宰相論」に東条が激怒し、東条の指金の憲兵隊によって拷問をうけたうえ、自宅に帰ってきて自決した。

◯反東条の逓信省工務局長松前重義を45歳という超高齢で二等兵として召集し、南方へ爆薬船に乗せて送った。

他にも、中村検事、谷田勇少将の事例などなど。

<参考サイト>
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/takeyarijiken.htm


<関連ブログ>
「土佐高知の雑記帳」より  映画に観る憲兵国家
http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-786.html


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